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歌川広重 ロンバケ 橋

表通りを、定規で引いたような直線の軌道で勢いよく雨が降っている。
こういう雨を見ると思い出す絵がある。
有名な浮世絵の1つ、歌川広重による「大はしあたけの夕立」だ。
学校の教科書にも載っているし、あのゴッホも模写した作品なので、見れば誰でも「ああ、この絵のことか」となることだろう。気になる人はググッてみてね。

その絵に描かれた「大はし」とは、東京を流れる「隅田川」にかかるその名に恥じぬ、大きな橋のことである。
当時のそのままという訳ではないが、今現在も「新大橋」の名前で同じ場所にかかっている。
僕は20歳そこそこの頃に、友達がこの橋の近くに住んでいたこともあり、何度も通った記憶がある。

そして、僕と同じ世代(30代後半)以上の人で知らない人はいない、キムタク主演のドラマ「ロンバケ」。
主人公である「セナ」の住むマンション、通称「セナマン」は、この大橋近くに実在した建物であり、ドラマが終わった後もファンが聖地巡礼として後を絶たなかったらしい。
もう何年も前に取り壊されて、今現在は姿を消しているそうだ。

川の彼岸と此岸を繋ぐように、今この瞬間僕の中で、大橋が歌川広重とロンバケを繋いでいる。
そして、今日窓の外に見た大雨を入り口にして、こんな他愛もないことを思い出したり考えたりしている。

目の前に現れる物事の一つ一つが、自分の中に漂う風景や情緒、あるいは雑学のあっちへこっちへと自分を運んでいく。それこそお互いの間にかけられた「橋」を渡るようにして。

そしてまた、僕がnoteで普段から書きしたためているこんな文章が、読んだ人の中にある思い出や誰かを思い浮かべさせるようなことがあるとしたら、僕の文章だって誰かにとっての「橋」のような役割になるのかもしれない、などとイキッたことを思っている。

そんな風に何でもかんでも「橋」に見立ててみると、いつだって目の前にある概念としての橋を渡った先、あるいはその橋に自分が運ばれた先にはいったい何が、って、ごめんちょっと何言ってんのかわかんないからもうええて。

とにかく、ふと窓外に降る雨をぼんやり眺めているだけでも、1分前には考えるつもりなんて1ミリもなかったようなことを、頭の中でチューインガムのように噛みしだいていたりするのが人生だ。

それがたとえどんなにくだらなく、なんの意味もないことだったとしても、生きているうちは延々とこんなことを繰り返していくんだろうな。
かけられた橋を渡り続けるような営みを。

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