【twilight 第4話】川面の色
市街地を流れる川に架かる橋の上から、センセイは川面をのぞきこんでいた。真下に映り込む真っ逆さまの世界は、時折り風が運ぶさざなみの上で不安定に揺れた。
「純粋な水色なんて、どこにもないのになぁ」
センセイは、子供の頃にしたお絵描きを思い出していた。水を描くときに使う色は決まって水色。川を描くときもきっと、そうしていたに違いない。
しかし、こうやってまじまじと川面を見てみれば、笑ってしまうくらい絵の具で言うところの「水色」が見当たらない。
ビル陰は何層にも重なった深い緑であり、空の反射は刷毛でサッと掃いたような淡いグレー。建物のガラスの反射は、点滅する黄色やだいだいの真ん中に、白を一滴落としたように見える。
「歯が痛くならないと、歯医者の看板にも気がつかないもんなぁ。それと一緒かぁ」
ギリギリのところでズレていそうな例え話で、ひとり自分を納得させたセンセイは、満足気に橋から連なる川沿いの公園に歩みをすすめた。
公園の入り口に立つ地元の英雄の像、その右肩で1羽の鳩が翼を休めている。逆光に浮かんだシルエットは、ゲゲゲの鬼太郎と目玉のオヤジをセンセイに彷彿させた。
ベンチに腰掛けてポケットからスマホを取り出すと、思いつきで検索をしてみる。
「鬼太郎 目玉のオヤジ」。液晶が映し出した目玉のオヤジは、意外なことに鬼太郎の肩ではなく頭に乗っていた。
試みに別の画像を見てみればそこにも同じように、鬼太郎の肩ではなく髪の隙間から顔を出す目玉のオヤジ。
自分の記憶の中に定着しているイメージの当てにならなさ。そして、人影まばらな平日真っ昼間の公園で、自分は一体なにをしているのだろうと、センセイは我に帰るのであった。
さまざまなことを記憶して、同時にさまざまなことを忘れながら生きている。
センセイはたまに自室の本棚から古い詩集を手に取って、ページを開くことがある。そこには、書き手の忘れまいとする情景が言葉の姿を借りて、ひっそりと佇んでいる。
読まれるたびに息を吹き返すようにして、時間を取り戻す情景の数々。しかし、誰にも読まれないままの詩はどうなってしまうのか。そのまま忘れ去られてしまうのだろうか。
そんなもの思いはセンセイを、360度際限なく広がる空間で所在なく漂うような、心持ちにさせた。
冬枯れの梢の下で、まだ散り落ちて間も無い扇形の葉が静かである。
コンビニで買ったカップ入りのホットコーヒーは、センセイの手のひらを温めた後で、役目を終えたようにすっかり冷めてしまった。
そろそろ、工房に戻る時間だ。
「おまえの言ってたガラムマサラだけどな…」
名前を忘れずに覚えた親方の言葉は、心なしか「ガラムマサラ」だけ語気を強めたように聞こえたが、それはセンセイの思い過ごしかもしれない。
「あれな、おまえの言った通りだったよ」
「使ってみたんですね?」
「おう。まだキャンプは先だけどな。まぁ、家で予行練習ってやつよ」
「お口に合いましたか?」
「おう。確かにカレーがスパイシーになったよ。おまえの言った通り、辛いっていうよりスパイシーだな、あれは」
親方のいいところは、センセイから聞いた「よくわかんねぇ」話を、自分なりに試してみるところにもある。
「お店の味っぽくなりませんか?」
「おう!確かに家庭のカレーが、お店の味って感じになるな」
「そうですよね。そっか、親方もカレー食べに行ったりするんですね」
「いや、行ったこと無ぇんだけどな」
親方の言う「お店の味」とは…と、一瞬疑問がセンセイの頭をかすめたが、何も言わずにいた。弟子としての礼節を忘れないセンセイである。
工房に響き渡る作業音。いつもと変わらない音に囲まれて過ごす仕事の時間が、センセイは好きだ。それは、センセイにはなくてはならない必要な拘束でもある。
拘束という言葉には、窮屈な印象がつきまとうが必ずしもそうではない。
むしろ、自分にとって好ましいそれさえあることを、センセイは親方の元で初めて見つけることができた。それも手伝って親方には頭が上がらない。
「よし、今日はこの辺にしとくか。そろそろ片付けろ」
「あ、はい。でもまだ僕、あと少しだけ作業残ってるんで、そこまでやっても大丈夫ですか?」
「でももヘチマもあるか。怪我でもされたらオレの監督責任だ。続きはまた明日だ」
「あ、すみません。じゃあ、そうしますね」
真面目な2人である。
夏にはまだ明るい帰り道も、この頃はすっかり夜の色をしている。立ち並ぶ家々の明かりを灯台にして、多くの人々が復路を行く船となる時間帯。東の空にポッカリと浮かんだのは満月だった。
家に着くまでの道のりを歩きながら、センセイは今日あった出来事をぼんやりと思い返してみようとするが、もうすでにして、うまく思い出せないことばかりのような気もする。
片側2車線の広い横断歩道を渡り切ると、そこは家に続く最後の直線だ。
朝には黒髪のA子さんとすれ違うその道。黒髪のA子さんも、もう帰路についたのだろうか。それとも、センセイの見知らぬオフィスの片隅で、残業に追われているのだろうか。
「またぼんやりして…、余計なことばっかり考えてないの。ご飯用意して待ってるんだから、早くしてね」どこかで奥さんのあきれた声が、聞こえた気がした。