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なんでもなさ ドキュメンタリー ごま塩

朝起きて、すぐ絵を描く。絵を描いたらそれをネットにアップして、昼の弁当の支度に取りかかる。
弁当と言っても、毎日同じでタッパーに敷き詰めた白米の上にごま塩を振りかけて、さらにその上に黄身が硬くなるまで焼いた目玉焼きを2つ乗せただけのものだ。毎日これ。

自分の生活の「なんでもなさ」が骨身に染みることがある。
それは、別に良いことでも悪いことでもない。ただなんでもない生活を淡々と生きる。
そして、幸せか?と問われれば即答で幸せだと答えることができる。

ネットフリックスで、とあるドキュメンタリー番組を見た。僕はノンフィクションのドキュメンタリー番組が好きだ。
自分の部屋という安全な場所から、わずかな断片であれ少しでも自分の知らない世界に触れることができるから。
その時見たのは、海外の治安の悪い地域で暮らすある女性の生活ぶりを取材したものだった。

僕の生活の「なんでもなさ」からすれば、対局にあるように見える彼女の日常だった。
暴力に溢れた地域で過酷な労働を強いられ、それでも食うのにやっと。寝るのも屋外で野宿同然の生活。
それでも、取材に当たったスタッフが「幸せか?」と聞けば彼女は「幸せだ」と答えた。
理由は、「仕事をしてご飯を食べられるから」だと言う。

僕の目には波乱に満ちているように見えるその生活も、当の本人である彼女にとっては「なんでもない」ことなのかもしれないなぁ、と。
こういう映像を見ると「かわいそうだ」と同情を示す人も少なくないけど、僕はそんな風には思わない。

実際に本人が(真偽はわからないが)、「幸せだ」と語っているのだから幸せなのだろうと思うし、世界にはたくさんの種類の「なんでもない人生」があり僕のものとは形の違うそれがあることを、「ただそうなんだ」と僕は受け入れるだけ。

こういうドキュメンタリーを見て悲痛な気持ちになることも理解できなくはないけど、とは言え自分に何かできるか?と問えば何もできない気がしてしまう。まったく無力だ。
今与えられた自分の「なんでもなさ」、その豊かさをしみじみ噛みしめることになる。

仕事の合間に、朝支度をしてきた弁当のフタを開けてみる。リュックに詰めて運ぶので、いつも決まってタッパーの片側に中身が寄っている。ひとくち、ひとくちと、箸で米と目玉焼きを口へと運ぶ。
僕は確信していることが一つある。
「ふりかけはごま塩が、最強に飽きがこない」
シンプルイズベストだ。

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