車、雑草、サンダル、2人組の女の子
夕方の散歩に出かけてくる、と嫁さんに伝えて玄関のドアを開く。肌に感じる外の空気はお世辞にも「気持ちいい」と言えるものではなく、もったりと重厚な湿気をはらんで、ぬるいゼリーのように体にまとわりつく。
マンションの階段を一階まで下りる。すぐ目の前の、国道だか県道だか知らないが、いつだって交通量の多い通りが、相変わらず信号待ちの車列で埋まっている。
車に関する知識が全く無い僕にとって、世の中の車は大きく3種類しかない。
「軽自動車」「デカい車」「プリウス」。
基本的にこの3つのくくりでしか僕は車を認識していない。
たまたまなのか、僕が出会う交通マナーが悪い車、かなりの高確率でプリウスなためにプリウスだけは、ぱっと見で判別することができるようになった。ちなみに、当たり前だがプリウスに罪はない。
人間は「自分たちが世界を認識するために必要なだけの、概念や語彙しか自分に備えない」、という意味合いの文章を読んだことがある。
ある学者が未開社会を調査していた。そこで出会った山奥に住む先住民族が、食べられない植物の一つ一つには名前をつけず、丸ごとまとめて「雑草」とだけ呼んでいた。
それはどうしてですか?と問うと「いや、必要ないからだよ」と答えたらしい。
読みながら、僕にとっての車のことやん、となったことをよく記憶している。
さて、鉄道高架下へと続く道を、嫁さんが3コインズで買ったという白いサンダルで闊歩する。
300円のサンダルとは思えない履き心地の良さで、「あ、もうサンダルは一生これでいいな」と僕は思った。
人生から自分にとって必要性の低い「迷う時間」「選ぶ時間」を取り除いていくことで「時間のゆとり」はできるようになる、と僕は考えていて、日々の生活でそれを実践してもいる。
おかげで、着る服も靴も、いつもシンプルなデザインの同じものを同じ店で買い続けている。
「服を選ぶ時間」は僕の人生において必要がない。清潔感さえあれば毎日同じでいい。ダサいと言われたって全然いい。そして今後は、サンダルも迷わなくて良くなった。嬉しい。
さて、鉄道高架下にさしかかると、2人の女性がつかず離れずの距離感で並んで歩いているのが見えた。ぱっと見2人とも20代前半くらいに見える。1人は自転車を押し、もう1人はトートバッグを肩からかけていた。
全くの他人にしては近すぎる、かと言って、友達同士ならば遠すぎる、絶妙な距離感で無言で歩く2人の女性を、知らず知らず目で追ってしまう。
あの2人友達かな…いや、他人かな…。お、ちょっと距離が離れたぞ!やっぱり他人同士だったんだな。っておもてたら、今度はそんなに近づくんかーい、それ友達の距離感やないかーい。でも無言なんかーい。いや、また離れるんかーい。
2人の関係は謎に包まれたまま、僕はスーパーの駐車場に続く坂道に差しかかった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?