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原付 魚 クリティカル

ここ2年放ったらかしだった原付を、年末に自分で修理してみた。
しかしエンジンのかかりが相変わらず不安定。自分でネットで色々調べたところ僕の原付は
「寒いとエンジンがかかりにくくなる」
らしい。
こういう時に大事なのは「あきらめ」である。
5回ほどキックスタートのエンジンを蹴って、かかる気配がしない時は、もういいや歩いて行こう。これで問題は解決する。

ちなみに、ちょっと外が暖かい日中に試しにトライしたところ1発で勢いよく「ぶぶーーん」と、エンジンがいなないた。
(いやいや、乗りたい時にぶぶーーんしてくれよ)
と勝手わがままを思うけど、人に事情があるように、原付には原付の事情があるのだろう。
と言うか、早くバイク屋に行けよ自分。

モノを丁寧に大切に扱うことが、どうしてかできない自分の元にやってきたそれらを、不憫に思うことがある。
ごめんな、オレで。ほんとはもっと、大切にしてくれる人のとこに行きたかったよな?ごめんな。
と、原付に、フライパンに、絵筆に、ギターに、リュックサックに、スニーカーに、その他多くの身の回り品に対してしばしば思う。

そんな僕が彼らにできることは何だろう?と考えた時に、
「徹底的に使い倒す」
との結論が出た。

だから、扱いは多少丁寧さに欠けたとしても、道具からすれば
「いやもうこんだけ使ってもらえたなら、オレの使命完全に全うできたっスよ。いつでも成仏できるっスよ。」
と思えるくらいには、修復不能レベルに壊れるまで、買い換えることなく徹底的に使い倒すようにしている。だから、道具とは長い付き合いになることが多い。

これに近い話がある。幼い頃から食卓に出された食べ物を残すと、父の拳が飛んでくる家庭で育った僕。
その教えは今も生きていて、残さず食べることは無論のこと、結婚後の生活で嫁さんに「うわぁ…」と軽く引かれるほど、キレイに焼き魚を平らげることができる。マンガみたいに、骨しか残さずに。

骨だけになった魚の声が聞こえる気がする。
「いやもうこんだけ食べてもらえたら、魚冥利に尽きるってもんスよ。いつでも成仏できるっス!あ、てかもうとっくに死んでたの忘れてたっス!ギョギョギョっ笑」
そう。残さずに食べ倒すことこそ、僕が食べ物にできるきっと最高の供養だろう。

幼時分には理解できなかった理不尽と、暴力にまみれた父の教えが、大人になった今でもあちこちでクリティカルに効いていることに、たまに気がつく。これもその1つだろう。
そんなことより、いつバイク屋に行こうかしら。

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