【twilight 第3話】 リバティ 流れのかけ算
「カツハヤシでお願いします」
「あ、じゃあ僕もそれで」
優柔不断なセンセイはだいたいにおいて、連れ合いと同じモノを注文することになる。
そのため、連れ合いが優柔不断な場合は困ったことになる。
刻々と過ぎる時間に、遅々として進まない注文の決定。お互いにメニュー表をパラパラ、ウェイターの足音にビクビク。早くしなければ…。そんなことがこれまでにも度々あった。
1日空いていた休日の予定をどう埋めるか、困り果てていた優柔不断なセンセイに、タイミングよく連絡をよこしたリバティ。
口癖のように「腹が減ったなぁ」とこぼすリバティは、地元の飲食店に精通しており、喫茶店や居酒屋の話になるといつも得意顔になる。
迎えに来たリバティの車に乗り込むと、開口一番「よっ。ところで、腹減ったよなぁ、なんか食べに行こうか」と、今思いついたことのように、元々そのつもりでいたことを口にした。
あらかじめ言っておくと、リバティの話の半分は「腹が減った」で、残りの半分は「人生のたられば」である。
喫茶トランペットの窓際の席で、カツハヤシを待つ間にリバティが話し始めた。
「いいよなぁ、イケメンはさぁ。オレもイケメンだったらもっと色々できたのになぁ…」
もっと色々…、謎の小箱のようなひとことであるが、あえてそのフタを開こうとしないセンセイ。
「イケメンだったらって言っても、まぁ、君は君でいいモノたくさん持ってるじゃないか」
「いいモノってたとえば何だよ?」
「んー、ほら…、ランチの注文をすぐ決められるようなところ、つまり、決断力があるだろ」
「だったら、決断力のあるイケメンが良かったよ、オレは」
そんな調子で不毛な会話を続けていると、ふとこちらに投げかけられた視線に、気づいたセンセイ。照明の控えめな灯に照らされて、マスターの趣味だろうか壁に貼り付けられたポスター、映画「男はつらいよ」の寅さんがこっちを見て笑っている。「まったく、くだらねぇ話ししやがって」とでも言うように。
センセイにとって友達とは、くだらない話をしていても、窮屈さを感じない間柄の他人のことだ。リバティの話す「人生のたられば」、そのあまりのくだらなさに、長い付き合いであるセンセイもしばしば閉口することはあっても、窮屈さを感じたことはこれまでに1度も無い。
そして、くだらないと分かっていて、何の窮屈さもなく聞くことができるリバティの話を、そのくだらなさに比例して、尊く感じる瞬間がセンセイには確かにあった。
運ばれてきたカツハヤシを口に運びながら
「やっぱりトランペット来たらコレでしょ。カレーより断然ハヤシでしょ。いやぁうまい」
とリバティ。
毎度のことガツガツと音立てて、食べ方が乱雑なリバティを見ながら、センセイは自分の食べ方も気になってくる。
そのせいだろう、スプーンを口に運ぶ手つきは、ぎこちないほど丁寧になってしまう。リバティと食事するときは、たいていそうだ。
昔から「人のフリみて我がフリ直せ」と言うが、我がフリ直そうと意識するあまり、不自然な姿を露呈してしまう自分の不器用さに、センセイは内心苦笑するのだった。
「おっ、ほらこの音楽」
食後の珈琲をすすりつつ、BGMにリバティが反応した。
「あー、アートペッパー…」
「たまに車で聞いてるんだよ。車ってなんであんなに、音楽が一段と良く聞こえるんだろうなぁ」
「かけ算だからかな、たぶん」
「…え、どういうこと?」
一瞬、間を置いてリバティが聞き返す。
「人はある種の流れを、気持ちいいと感じるでしょ。ほら音楽だって、1つの流れ。だから、曲を流すとか曲が流れるとか言うじゃないの」
「うん、たしかに、それで?」
「車って車窓に風景が、これまた流れてるでしょ。気持ちいい流れがそこでかけ算になるんだよきっと。風景と音楽の流れがさ」
「たしかに部屋で聞く時は音楽だけしか、流れてないもんなぁ」
「たとえば家でもさ、映画とかドラマを見てて流れてくる音楽はどうだろう?」
「あー、それも良く聞こえる気がするかも。流れのかけ算なのか」
「うん。映像と音楽の」
「2×2で4になるわけだ」
「たぶん、そういうこと」
「たぶんね」
「うん、たぶん…」
センセイの話には「たぶん」が多い。自分の言葉に責任を持ちたくないからなのか、単に自信がないからなのか、センセイ自身にもよく分からない。
奥さんにも度々指摘されてきた、「たぶん」の頻発ではあるが、直そうにも自分ではどうすることもできない骨格の歪みのようなもので、奥さんもセンセイ自身も、今ではあきらめている。人生にはしばしば、必要なあきらめがある。
「もし子供の時からずっとピアノ続けてたら、きっと今頃凄いことになってたのになぁ…。もう今さらだよなぁ」
運転席のリバティは、相変わらず人生のたらればに忙しい。
それには特に何も応えずセンセイは、助手席の窓枠に縁取られた海を眺めてみる。
ゆっくりと遠ざかる船が水面に引いたひとすじの白い轍は、しばらく波間を漂うと氷が溶けるみたいに、跡形もなく消え去った。
その上で一羽の海鳥が、大きな旋回をして見せた。迷いもくもりも無く、かつ大胆に透きとおる色彩で弧を描く自分より小さな生命。それを見たセンセイの胸の内に、ひとしずくの何かが流れた。