じゃなくて、ある風景に美を見出す自分がいるだけ
だいたい毎朝4時半にスマホのアラームが鳴る前にもう目が覚めている。
保険で5時に鳴るようにかけているアラームのお世話になったことが、記憶にないのでもはやかける必要がないかもしれない。
目覚めたて台所でコップ一杯の水を飲んでから、日課の絵に取りかかる。モーニングルーティンというやつ。
早朝の町の孕む静けさが好きだ。交通量の多い通り沿いのマンションに住んでいるが、この時間帯は行き交う車も人もいない。
カーテン越しに、だんだんと藍染を漂白するようにして白んでくる東の空には、巨大なマンションに挟まれる形で地元の象徴、桜島がそびえている。
朝靄に阻まれて見えない日もあれば、不純物のない透明な空気の中にくっきりと見える日もある。見えない日には「見えないなぁ」と、見える日には「見えるなぁ」と、そんな当たり前のことを思う。
観光客にはありがたがられるその景観も、僕にとっては日常であり、日常であるが故に別段の感慨も無いのだけれど、「じゃあなくてもいいんじゃない?」と聞かれれば、「それは困る」と答えたい。そこにあるはずのものはいつだってそこにあって欲しいと思う。それは、安心をもたらすから。
作業台について、絵にするモチーフをスマホで撮った写真の中から選ぶ。この時間が、実際に絵を描く時間より長くかかることが多い。1時間以上かかることもザラ。描くのは3.40分くらいなのに。
日常を撮った写真を見返しては、その写真をどうトリミングすれば面白く見えるかな、とばかり考えている。
一枚の写真から3つ絵が生まれることもあれば、1枚も絵にならないことも多い。
また、1度絵にならないとあきらめた写真の中に、後日見返すと絵にしたい構図が見つかることもある。
こんなことを繰り返しているうちに、面白い、あるいは美しい風景というものはなく、ある風景の中に面白さや美しさを見出す自分があるだけだということに、つくづく思い至る。
その時々のタイミングや自分の気持ちや身を置く環境、周囲の状態、あらゆることが影響して、ある瞬間における自分のものの見方が決定されることを思うと、この瞬間に自分の内側に抱えていることの脆さ、儚さがなんだか身に染みて尊い。
絵筆を走らせたら無心になれる。静かな朝、紙パレットに落とした絵の具、水彩紙、水、窓外の桜島。
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