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風景 母校 セルフレジ

先日Twitterをアホみたいな顔で見ていると、昭和53年の地元の風景写真がタイムラインに現れた。つまり、43年前の風景写真。
毎日のように通勤で通る駅前、当時は高い建物がほとんどない。埃っぽい空気を感じるのは、写真の質感によるものだろうか。
駅舎も今と全く違っていてまだ1月でありながら、「昭和オブジイヤー」にノミネートまちがい無しの風情だ。

そして今日、休日の散歩に出かけてみた。
駅前の信号を待ちながら今見ているこの風景も50年も経てば、想像もつかないものに変わってしまうことを思ったりした。
別にセンチメンタルにはなっているわけではなく、「ただ、一切は流れて行きます」(だっけ?)と書いた太宰治(だっけ?)の言葉がよぎる。不確かな要素が多すぎる文章だな。ギブミー記憶力。

ここ最近は、ずっと薄曇りの空が続いていたが、今日は快晴。文字通り雲ひとつない空が開けている。小春日和という言葉はきっと今日みたいな日のことを言う。
小春日和は、「春」という文字を使っているけれど「冬」を表す季語である。その紛らわしさから、学校のテストの引っかけ問題として、常連みたいな存在だった。誰が引っかかるか、そんな問題。

散歩の途中に、母校の高校がある。
僕が高3だったのはジャスト20年前のこと。当時の校舎は褪せたピンク色だったはず。
でも今は、うっすいグレーというか水色というか、なんとも言えない色をしている。
今も昔も絵の具にあったら、絶対に手に取らないタイプの色であることに変わりはないが、なんというか、もう少しフツーの無難な色で良くないか?と、余計なお節介を考えてしまう。

そういえば、僕の頭の中には、「余計なお節介」が居座っていることが少なくない。
誰かに対して、何かに対して、いやもっとこうしたらよくないか?とか、ついそんなことを考えてしまう。

当事者には当事者の事情がきっとあるというのに、それを忘れてしまうのか、ウッカリ余計なお節介が顔を出す。口から言葉には出さないまでも。
その自分って何なんだと思う。どの立場にいるんだと、我に返って自分に少しうんざりしたり。
きっと暇なんだろう。いや、確実に暇なんだろう。

帰りにいつものマックスバリュでエビスビールを買う。
不慣れなうちはアワアワしていたセルフレジも、この頃は、かなり熟達してきた。
セルフレジを打ってるお客さんの中では、誰よりもスピーディーだし、なんならちょっとした店のスタッフさんより、レジ打ち速い気がする。
というかむしろ、スタッフさんを視界の片隅に置いてレジのスピードを勝手に競ったりしている。

きっと、いや、
確実に暇なんだろう、僕って。

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