モノ トワイライト 無限列車
なるべくモノを持たないようにしている。
人生のあるタイミングで、致命的に片付けが苦手な自分を自覚した。片付けても次の日にはすぐに散らかっているし、日常的に部屋を片付けようというスイッチがあまり入ることもない。
そもそもモノがなければ散らかりようがないと気がついて、めちゃくちゃに断捨離をした10年ほど前の夏の日。
その年の冬になると、冬服が収納にほぼ入っておらず、発作的な断捨離熱に任せて、「捨て過ぎた夏の自分」を呪うことになった。
あれから10年後の今。相変わらず片付けが苦手で、僕自身はモノを最低限に絞っての生活を心がけてはいるが、嫁さんの圧倒的な物欲と買い物によって、我が家はドンキホーテのように、モノで溢れかえっている。
キッチンの引き出しを開けると、「便利グッズ」の類が大混雑をしている。これじゃ、目的のモノを探すのにも一苦労だろうと、いったい便利なのか不便なのか…、と嫁さんの生活を想像してみる。
ウチの嫁さんは「どうしていつも忘れ物ばかりするんだろう私」と、よく言っている。
でもそれは、シンプルに「管理できる物量のキャパオーバー」なんだと思う。
たとえば、車で10分の実家にちょっと寄るだけでも、僕が東京に2泊3日の出張に行く時より荷物が多かったりする。(ガチで)
カバンやバッグの中に何がそんなに入っているのか知らないけど、とにかく持ち物が多い。
だから、忘れ物が多いんじゃなくて、持ち物の量が管理能力の限界を超えてるだけだと、僕は思うのだけどこんなことを嫁さんに言うのは愚というもの。
余計な一言は、余計な荷物と同じようになるべく自分の生活から省いていこう。
さて、部屋が散らかる、忘れ物をする、こういうのって全部、「自分が必要とするモノ」があるから起こることで、それが全くなければ散らからないし忘れることもない。
そうやって見ると、モノを所有するというひとつの行為が、さまざまな場面を孕んでいてそれが、すごくおもしろいなと思う。
片付けてスッキリ、散らかってモヤモヤ、忘れ物してヒヤヒヤ、探しモノが見つからずにイライラ。
これらの気持ちとは、「モノを所有する」という親から生まれた子供だなぁなどと、どうでもいいことを考えている。
今日は月曜日でそろそろ日の入りを迎える時刻。僕の好きなトワイライトタイムがやってくる。
まだ夜と呼ぶには少し早い時間から、台所に立ってエビスビールを飲みながら夕飯に鯖の塩焼きを焼いたり、味噌汁を作ろう。
箸でつつきながら、アラプラで配信解禁になった鬼滅の刃無限列車編でも見ようじゃないの。
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