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会話 部屋 町田康

人と会話していると、結局何を言いたいのか分からない人がいたり、難しい言葉を多用する人がいたり、簡単な言葉でとてもわかりやすい人がいたりと、いろいろ。
いつも、それって部屋みたいだなと思う。

口に出す言葉(書く文章にも)には、その人の頭の中の「ありよう」が割とそのまま映る。気持ちや思考はウソでごまかせても、「ありよう」はそうはいかない。
話があっちへこっちへ行ったり来たりでよくわからない人の頭の中は、多分とっ散らかってるし、理路整然としてる人は、頭の中もキレイに整頓されているのだろう。
まったく、部屋と同じだなぁ、と。

自分はどうだろうか?と思う。
元々、話を簡潔に済ますのが下手くそで、つい長くなってしまう。加えて年々、言葉が出てこない。
「ほらアレ、アレなんだっけ。まぁいいや、それでさ…」
固有名詞も、語彙力も、言葉での表現力も全てにおいて残念なことになっている気がしないでもない。
頭の中、残念な部屋になってる。残念な部屋ってどんな部屋か、わからないけど。

自分の中に渦巻いている混沌を、言語化することをサボり続けると、どんどん言語化する能力が衰える。
こうやって文章を書いていても本当に、「うわぁ〜、こんなにも書けないもんかね…」と、毎度自分にうわぁ〜、ってなる。

脳内の言語化するための筋肉、略して「言語化筋」とでも言っておこうか。
普段から言語化筋をもっと使って鍛えておかねば…。

とは言え、ここ数年は人との会話において、求められない限りなるべく自分の意見を言わないことにしている。すると、あらビックリ。思ってた以上に意見って求められないのね。

うわぁ〜、こんなにも需要なかったんですねぇ僕の意見…今までいけしゃあしゃあ言ってたの恥っずぅ…、と、自分にうわぁ〜ってなった上で、以前に比べるとこちらから話す機会もだいぶ減ってしまった。
それも、わが言語化筋の衰えに拍車をかけている気がする。

このエッセイ、自分の中では矛盾は矛盾のまま、筋もなく、断片的なことを書き散らす、意味も目的もない文章としているのだけど、そういう「スカした態度」を免罪符にして、自分の言語化筋を正しく働かせることから逃げてるだけのような気もしないでもない。

と、ここまで書いたこの文章を、また頭から読み返してみたら、「結局、何言っとんねん」な文章になってしまっている。
いやぁ、散らかってるなぁ…。

ところで最近、町田康の「きれぎれ」という作品を読んでいる。
一見、筋も言葉も文章も散らかっているかのように感じるのに、物語全体として絶妙なバランスの調和を保っていて、不思議な美しさを覚える。そして、とんでもなくユーモラス。
なんていうか、
「あぁ、これこそが、匠の技能ってやつですねぇ」と、散らかった部屋で思ってしまった。

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