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雲 記憶 夕暮れ

これを言ったところで涼しくなるわけでもないのに、「暑いね」を連発する夏がいよいよ盛っている。
濃いブルーをバックに、入道雲がもくもくと高い。
雲の濃淡を見てみれば、白、黄、灰、紺、紫が複雑に絡み合いながら調和を守りつつ、上空の気流に乗って流れていく。

小学生の頃、国語の授業で「くじら雲」が出てくる作品があった。
タイトルはくじら雲だったかどうか定かではないが、教科書に載っている挿絵が好きだったことを覚えている。
と言っても、どんな絵だったかは全く覚えていない。

他にも、大瀧詠一さんの曲で、歌詞にくじらが出てくる作品があったことも脳裏をかすめる。
夏の空を彷彿させる音楽で、10年以上前にたまに聞いたりしていた。
と言っても、どんな曲だったか全体を通しては覚えていない。

記憶とはよく分からないもので、「忘れまい」としていることを簡単に忘れてしまったり、どうでもいいような取るに足らないことが、いつまでも脳裏にこびりついていたりする。

全体の無い断片が、逆に、断片のない全体が。記憶の向こうから引っ張り出して取り上げたものはいつもチグハグだが、誰だってそんなものなんだろうと思う。

生きている時間の長さに比例して、「思い出」は増えるのだろうか。どうなんだろう。
増える気もすれば、全体の数は変わらずに、一つ加わると別の一つが消滅するような気もする。
考えても仕方のないことを、考えてしまうのも、夏の午後の退屈しのぎには役に立つ。

ここ最近、近所のスーパーマーケットの駐車場から見上げた夕暮れ時の空が素晴らしかった。
スーパーマーケットの建物や、斜向かいにあるマクドナルド、市立病院、アスファルトの路面や、まもなく窓に明かりが灯り出すだろうマンション。
視界にあるそれぞれが、空が放つオレンジをそれぞれの色を混ぜて跳ね返していた。

「お、これは絵に描きたいな」
と思い、スマホを取り出して構えてみる。
空に向けて、建物に向けて、次々とシャッターを切ってみるが、どうにも雰囲気が出ない。
家に持ち帰って写真を見返しても、結局はちっとも絵に描く気にならないものだった。

僕の職場は、割と交通量のおおい通りに面している。
仕事の空いた時間に、窓の外をぼけっと眺めていると、車だけでなく、日傘を差した人たちがポツポツと行き交う姿を目にする。

「日傘 ぐるぐる 僕は たいくつ」
そういう歌詞の歌があたまの中にポンと流れる。一瞬だけ誰の曲だったかなぁと、考え込んでしまったが、今回は大丈夫だった。
頭から最後まで、そしてタイトルも覚えている曲だった。

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