【twilight 第2話】親方 駅前のイルミネーション
仕事先の工房で休憩を取っているセンセイの元に、親方が声をかけてきた。
「あのさ、おまえがこの前言ってた、アレなんだったっけ?あの、ほら、カレーにひと振りしたら、うまくなるとか言ってたヤツよ」
「あ、ガラムマサラのことですか?」
「そうそれよそれ。それかけたら、カレーが美味くなるんでしょ?」
「まぁ…僕の好みもありますけどね。家庭の味がなんとなく、お店の味っぽくなるっていうか…」
「おー、いいじゃねぇか。今度オレ、友達とキャンプに行くんだけどな。カレー作る担当なんだよ。ちょっとフツーと違ったパンチ効いたヤツ作って、連中をアッと言わせてぇわけよ。で、それって辛いの?」
「そうですねぇ…かける量にもよりますけど、唐辛子みたいな辛さじゃなくて、なんというかこう、スパイシーっていうか…」
「よくわかんねぇな、おまえの話はいっつも。まぁいいや、とにかくそのガンダムマンダムだっけ?それ買ってみよっかなって」
「あ、ガラムマサラです…。そうですね、実際に食べてみた方が早いですね、きっと」
親方は言葉は辛口な割に、カレーの辛口は苦手である。歯に衣着せぬモノ言いは時に人との衝突を招くが、根はいい人である。
家より長い時間を仕事場で過ごす人は多く、親方もセンセイもそれぞれの家族よりも長い時間を、毎日のように共にしている。
気を使わないわけでもないが、大して気を使うこともない。それは親方の人柄だから成せる業で、センセイは親方のそんなところを密かに尊敬している。
「仕事さえキッチリしてくれりゃあとはなんでもいい」と親方はその言葉通り、一旦仕事を離れると、細かいことは何一つ言わない。
そして自分より、多くの物事に博学のセンセイにさまざまなことを質問してくる。
件のガラムマサラに限らず、インターネットの使い方、魚釣りの仕掛けの作り方、オーディオの配線の仕方、スコーンの焼き方、観葉植物の水やりのタイミング、質問の内容は多岐にわたるが、センセイの話を聞いた上で「よくわかんねぇなぁ、おまえの話は」とお決まりのように応えるのが常である。
「それでよ、そのガラムなんとかは、どこで買えんだよ?」
「この辺りだと、確か駅裏のスーパーに多分あると思いますよ」
「多分じゃ仕方ねぇんだよ。まぁ、いいや、行って探してみっからよ」
素直な親方である。
親方は淡々と、スピーディに正確な仕事をこなす昔気質の職人である。昔気質の職人と言えば、家庭では亭主関白な姿が想像されるが、親方はそうではない。
「家庭ってもんはな、男が尻に敷かれてるほうが、うまくいくんだよ。女なんて何考えてっかわかんねぇだろ?いや初めはオレも、言い返したりしてたんだけどよ、それで何かが解決した試しがねぇのよ。だから、へいへい言うこと聞いてりゃいいんだよ。」
いつかの親方の言葉である。
あらゆるものごとのバランスを、感覚的に取ることができる(ように見える)親方を、センセイは羨ましく思うことがある。
ここで言う感覚的にとは、いちいち考え込まずに、その瞬間の自分のなんとなくの「好きか嫌いか」「ラクかしんどいか」だけで、物事の判断をスムーズに下せるようなこと。
他人から見てどうか、道徳的にどうか、その結果どうなるか、そんなことは、二の次三の次にして。
自分もそうやって生きていけたら、どんなに素晴らしいだろう、そうは思ってみてもうまくいかないセンセイの頭の中では、毎日のように何人かのセンセイによる不毛な議論がくり返されている。
テレビの討論番組で見る光景だ。
あっちの意見にこっちが反論。そっちの意見にあっちが反論。各々やかましい割に平行線をたどり続けた結果、何も解決せずに時間切れ。ではまた次回お会いしましょう…。
工房のラジオから聞こえてくるMCの語りは、週末に催されるイベントについて触れていた。「さて、いよいよ迫って参りましたね今年も!ジャズフェスティバルの季節がやってきました!」いかにも、楽しみで仕方がありませんといった、MCの高揚した声色に親方が応えるように口を開く。
「そう言えばおまえよ、ジャズ聞くって言ってたよな?」
「はい、好きですよ」
「オレはサッパリわかんねぇんだけどさ、ジャズってどこがいいの?」
「うーん…曲にもよりますけど、ぼくは気持ちがウキウキしたり、落ち着いたりそういうのがあって好きなんですよ。詳しくはないんですけどね。
そう言えば親方、クリスマスになると、街からにぎやかな音楽聞こえてきたりしません?」
「あー、あれだよな!マラヤンチャーリーだろ?有名な曲あるよな。サンタクロースがどうのこうの歌ってるやつ。オレはアメリカ語はわかんねぇけど」
「それ多分、マライアキャリーじゃないですか?」
「いいんだよ、そんなことは。チャチャ入れんなっての。それよりジャズだよジャズ」
「そうそう、クリスマスの…」
少し前に今年も駅前の広場では、クリスマスツリーとイルミネーションが姿を現した。その日センセイは仕事の帰り道、遠回りしてそれを見に行った。
スマホで写真を撮る家族連れ、カップル、屋台の売り子さんの姿に混じって、一人ベンチに腰かけてぼんやりと冬の灯を眺めるセンセイ。
ここから遠く離れた町に住んでいた頃のこと。近所の寂れた商店街にもこの時期になると、ささやかなイルミネーションが飾られた。
青、赤、黄色、緑、まばらな光を歩道のタイルが頼りなく反射した。その光景は、かえってセンセイを寂しくさせた。
今にして思い返せばその寂しさは、宵闇に吸い込まれそうな灯の頼りなさに、センセイ自身の姿を見たからだったのかもしれない。
目の前の風景を見ることは、その風景を鏡にして自分の姿を見ることでも、きっとあるから。
ベンチから腰をあげると、朝よりもグッと冷えた空気が首元をかすめた。襟のない薄手のダウンを着たまま、首をすくめたセンセイ。「家に帰ってなんかあったかいの、飲も。よし、そうしよう。」センセイは広場を後にした。
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