【twilight 第6話】 ヒカリ 美術準備室
「オェッ…」
歯磨きをしながら時折りえずくようになったのは、いつからだろうか。
子供のころはそんなことなかったよなぁ。年齢的に、オジサンに片足突っ込み始めたくらいからのような…、分からない。鏡の前に立つセンセイは、顔の下半分を泡だらけに、そんなことを考えていた。
「まったく…それ、なんとかならないの?」
センセイの胸の内を見透かしたかのようなタイミングで、あきれて笑う奥さん。
「ひは…そほひはれへも…」
「歯磨き終わってからにしてね」
洗面台の周りに、泡が飛び散っていないか目配せしつつ、奥さんはそう言った。
「いや、そう言われてもねぇ…やりたくてやってるわけじゃ無いから…」
「歯ブラシ、奥まで入れ過ぎなんじゃない?」
「でも、奥まで磨きたいしなぁ」
顎を手でこすりながら、こう考えた。
奥まで磨けばえずいちゃう。えずかないでは磨けまい。えずけば奥さんあきれ顔。とかくに、奥の歯は磨きにくい。
夏目漱石を気取ってみたセンセイは、一呼吸おいて、
「次からは、気をつけてみるよ」
と、次を待たずに忘れることを口にした。
「コーヒーのどこがすきなの?」
毎朝のなんとなく過ごす時間、コーヒーをズズズとやっているセンセイに奥さんがたずねた。
「私おいしいって思ったことないの。特にブラック。苦いだけじゃない。みんな、我慢して飲んでるんじゃないかって、密かに思ってる」
「おいしいよ」
「どこが?」
放課後の美術準備室で、雑然とごった返す画材や彫刻の類に紛れて、センセイは窓からのぞくテニスコートを眺めていた。
「おい、ちょっとコーヒー淹れてくれないか?」
美術教師の言葉に、インスタントのコーヒーが置かれた棚に向かうと、
「おまえらも、飲みたかったら飲んでいいぞ」
とのこと。その場に居合わせたもう1人は、同級生の絵描きであるヒカリだった。
「あ、じゃあ私のもお願い」
ヒカリの分まで、紙コップに3つのコーヒーを用意したセンセイ。砂糖とミルクの必要は、その内の1つにだけあった。
冷えた準備室内に、互いに距離を取った3つの湯気が立ち昇っていた。
「はぁ…、おいしい」
窓からの光に水色の湯気をはらんだ、ヒカリのそのつぶやきは、知らないうちにもう子供とは呼べないところまで自分たちが来てしまったことを、なんとなくセンセイに教えた。
「ねぇ、聞いてるの?」
返事を促すように奥さんがたずねた。
「あぁ、えっとね、初めは練習したんだ」
「練習?」
「うん。ブラックは飲めなかったから」
「ははは、なによ練習って。はぁ、おかしい。でも、今はおいしいんだ?」
「うん。たぶん、大人になったんだよ。ぼくも」
「も?」
「あ、いや、なんでもない…」
センセイはコーヒーではなく、お茶を濁した。
地毛なのか染めているのか、ほんの少しだけ栗色を含んだ髪はマッシュルームカットに切りそろえられていた。切り過ぎたのだろうか、しきりに眉の上にある前髪を触りながら、教室の片隅でじゃれ合う2人にヒカリが言った。
「あんた達って、ほんと毎日イチャイチャしてるよね」
その言葉に、リバティとセンセイは困惑顔である。
「あ、いや、変な意味に取らないでよ。仲良いねって意味」
言葉をそのままの意味にしか受け取れない2人に比べて、ヒカリは少しだけませていたのだろう。
「まったく、絵描きさんの言うことはよく分かんないよなぁ」
照れ隠しのつもりだろう、そう茶化すリバティの言葉を受け、ヒカリの目に一瞬差した陰を見落とさなかったセンセイ。
「どうかな…」
と、あいまいに返すことが、その時できる精一杯だった。
通勤路を歩きながら、遠く向こうから黒髪のA子さんがこちらに歩いてくるのが見えた。園児の送迎の車列が、保育園前の路肩にできている。その横を通り過ぎるセンセイの右耳を目指して、まだ幼い子供たちの賑やかな声が飛んでくる。
園児たちの目に映る朝の色は、どんな風だろうか。自分も見ていたはずのそれを思い出そうとしても、なかなかうまく像を結んでくれない。
「まぁ、そんなもんだよなぁ」
と、センセイは頭をかいてみる。たしかに、そんなものだ。
遠ざかる黒髪のA子さんの足音を、背中に聞きながら、建物の隙間にのぞく空は淡い水彩画のようだった。そのずっと手前、複雑なあやとりのように模様を作る電線の、墨で引いたような黒が朝日を撥ねて光っている。
「そういえば…ヒカリの描いた絵って、ちゃんと見たことない気がするなぁ」
青信号を待ちながら卒業して以来、会いもしないヒカリの絵のことが、なんとなく気にかかる。
「いつか、ちゃんと見てみたいな」
果たしてやって来るだろうか、その「いつか」に思いを巡らせている間に、横断歩道を渡る時間がやって来た。
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