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「自分の期待にだけ応えられればそれで充分なのかもしれない」 ~キャリア・ドリフターズ #3

MBA過程修了を機に、普段あまりしない自分の人生の棚卸しをしてみています。
棚卸したことにより余計決断に重たい意味がのしかかってきてる感もありますが、いずれ取り組まなければならないことなら早い方が良いと思い、唸りながらやってみています。

近頃自分のキャリアの軌跡を振り返る中で考えていることは、「他人の期待に応えることの長期的な意義」についてです。

例えば学校の成績や、受験・進学、いい大学や大企業に入ること、昇進すること、認められること。恐らく、割と身近な人から見ても私はわかりやすく「評価されている」方の人に入ると思います。

「○○さんは優秀だから。○○さんなら大丈夫。」

私自身の自己評価とか実態とはあまり関係なく、だいたいこのフレーズによって会話が終了するパターンが多いです。そこまで懇意でない人や、あまり会ってない昔の友達などからもそういわれがちです。

そっか。大丈夫、と言われたら、まぁ大丈夫なのかもしれない。何よりみんな、私ができると思ってくれている。じゃ頑張ろう。やりたいかやりたくないとかはあまり考えない。成長できそうだし。仕事だし。

こういう感じで10代、20代が過ぎていきました。生徒会長とか、目上の人を部下に持つリーダーとか社内女性初の○○とか社長賞とか、そういうのを色々やりました。すごく勉強になりましたし実際成長できました。鬱になって2か月会社を休んだりしましたが、それを含め無駄なことは1つもなかったと思います。

だけど。

30代になって思うのは、とはいえ私は自分の期待には何一つ応えてこなかったなぁということです。


***


私は分かりやす過ぎるほどの文系で、子供のころから本を読んだり文章を書いたりするのが大好きで、将来は小説家になりたいと思っていました。算数は小4くらいから苦手になり、やる意味が全然分かりませんでした。(すぐ意味とか考えたがるあたり今も変わりませんが)

けれど、親は前述の経緯から私に医療系の仕事に就くことを強く期待していました。看護師をはじめ、理学療法士とか作業療法士とか言語聴覚士とか、小6ぐらいではそれがどんな仕事なのかパっと理解できないようなやつまで、とにかく色々勧めてきました。(ちなみに母はいま介護福祉士)

正直それが何かも、やりたいかどうかも不明でしたが、親がそういうので、次第に「将来何するの?」と訊かれたら、小説家というより理学療法士ということのほうが多くなりました。

時が過ぎ、公立高校の普通科に進学した私は、最初に自分の意志で「進路」を選択する岐路に立たされました。入学後の「文理コース選択」です。すでにその時、数学は死ぬほど嫌いな科目になっており、時には赤点取りそうなぐらいの深刻な理解不足に陥っていたのですが、私は色々考えた末に理系に進むことを選びました。まだ人生の最初の段階で、(嫌いだけど)もうこれ以上数学をやらない事が、何か今後の選択の幅を狭めそう。リガクリョウホウシになれなくなりそうだし。そういうことを考えていました。

だけど、やっぱり私は文系だった。救いがたく文系だった。進学コースの理系に入ったものの、数Ⅲ・数Cあたりからもう現実逃避が始まって、楕円の面積なんて人生で求めること絶対ないしと窓の外をみてた。一応勉強したけど全然理解できなかった。数学の先生に個別に習いにまで行ったけど、それでも頭に入ってこなかった。国語や英語では模試でトップに入るのに、数学だけ下から2番目とかそういう感じで、なんでここにいるの感が半端なかった。今思えば「向いてない」ってことなんですが、その時は本当に自分にがっかりしました。

そして、だんだんふつふつと、自分はこのまま理系の人生を歩んでいいのかと疑念を持つようになりました。リガクというくらいだから、たぶん理系なんだろうと(違うけど)、そうなると、ずっとこのまま嫌いな数学をやり続けないといけないのかもと。そういうややこしい遠回りをして初めて、私はちゃんと自分の「やりたいこと」に向き合わなければならなくなりました。

結果、私は親に「教員免許をとるから」と宣言することで、国立の文学部(教職課程が誰でも取れた)に入ることを許されました。文学!本当に好きなことができる!私は好きなことをするという選択をしたんだ。それだけで、なんだかその決断は、意義深く崇高なものに思えました。


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今思えば、別にこのプロセスも間違いではなかったと思います。嫌いなことから逃げたくなかった。それも立派な意志です。結果、一生の親友に出会ったのもこの理系のクラスだったので、そういう意味ではこの選択なくして今の私はなかった。

だけど、あの時最初から好きなことを思い切り選んでいたら?

10年以上たった今、こう思わない日がないわけではありません。

この選択が人からどう見えるか?どう思われるのか?今では、素直に自分のやりたいことを選ぶということが、世の中で一番ハードルが上がってしまった。というかわからなくなってしまった。少し寂しいですが、それが今の私です。

結局、応えてあげるべきは自分への期待だけなのだと思います。
そう、自分で思っているレベルの更に5倍、周りは自分に関心はなさそうです。
ならば、いいではないですか。
賢く無邪気に、自分の自分への期待にだけ、楽しく応えればいいのです。他人の期待に応えたところで、10年後のわたしの有様に、誰も責任など取ってはくれないわけですから。

そして、他人の期待に応えなかったところで、大して迷惑ではないのです。恐らく、あなたが思うその5分の1くらい。

私はやっと今、そんなことに気がつきはじめています。






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