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キャリア・ドリフターズ #2 「長女という慢性疾患」

とかく、母とか父というものは属性でなく親という病だと診断されてしまう世知辛い昨今。娘、そして長女という役割も立派な疾患だと気が付きました。

私の場合30年ぐらいたって判明したので、もはや結構末期のステージ4ぐらいの重症ではないかと思われます。

自分のキャリアを語る上で、どのくらい上流へ遡ればいいのかなぁと考えた時に、この病気について触れないわけにはいかないと思いました。私という人間を構成する最重要ファクターである家族(主に母)、そしてその関係としての娘/長女という属性は、間違いなく、私の意思決定のベースとなっているからです。そして不思議なことに、私の周りにいる友人たちも割とそういう治らない病を抱えた子が多いように思います。

ある記事によれば、長女という病は以下のような症状を示すそうです。

・責任感が強い

・期待にこたえるために頑張るし、実際こたえられてしまう

・小さな頃からわりといい子、というかとてもいい子

・弱音を吐かないため時々パンクする

・パンクすると死にそうなくらい落ち込む

・ダメな子と思われると、とてもプライドが傷付く

・面倒見が良いが、人に面倒を見てもらうのは苦手、甘え下手なので

・人に命令するくせに、命令されるとムカッとする


別に長女じゃなくても該当する人がめちゃくちゃいそうですが、まぁ「わかる~」と頷いてる方の8割ぐらいは長女じゃないかと思います。

私の両親は、私が5歳の時に離婚しました。妹はまだ1歳と小さく、母は32歳で普通の専業主婦でした。もう正確なことは覚えていませんがいまだに思い出せるのは、親のケンカで飛んでた洗濯物と、親戚一同の前で肉親から叱責される母親の泣き姿です。離婚をするということが当時まだ珍しく、さらにクソ田舎の保守的な家系の親族たちには、出戻りの母はいかなる理由があろうとも恥ずかしい存在だったのでしょう。ほどなくして、私たち親子3人は母の実家に居候することになりました。

母は女子高を出た後、保育士の資格を取るため関西圏の短大に進学しましたが、挫折して中退、地元に戻り、結婚するまで今でいう派遣のような仕事に従事していました。スキルと呼べるようなものは特に持ち合わせておらず、専業主婦からいきなり一家の大黒柱への転身を余儀なくされ、祖母に子守をお願いし昼は洋裁工場、夜はお弁当屋さんのパートという誰でもできる系×長時間労働の合わせ技でお金を稼ぐことになりました。5歳当時の私は、夜寝るときに母がいないことが寂しくて、「私が幼稚園を辞めるから、お母さんお弁当屋さん辞めて家にいて」と申し出たそうです。なかなかリアルかつコストカット効果の高そうなオファーですが、その時本当に申し訳なさそうな顔をしていた母の姿を何となく覚えています。

そんなこともあり、彼女は私に資格を取ることの優位性を常々刷り込んできました。自分が成し遂げられなかったことへの後悔を娘への期待に変換して、ことあるごとに叩き込んでくるのです。その背景には、スキルがなくいざというときまともな仕事につけなかった自分のように苦労してほしくないという切実な親心があったのでしょう。本当に心からそう思っていたと思います。だから私自身、仕事をする=何か認められた資格や立場を得て働くことだとずっと思っていました。

加えて母は当時身体が弱く、よく仕事を休んでいました。離婚を震源にした心労や環境の劇的変化によって心身ともにガタガタだったようです。朝布団のなかで「天井が回ってる・・・」と呻いていたり、夜中金縛りでものすごい悲鳴をあげてみたり、今では笑えますが当時は親が死ぬんじゃないかと気が気ではありませんでした。そのような勤怠状況にあってなかなか職場の理解を得られず、彼女はよく職を転々としていました。いずれも割と体力勝負で、なかなか継続したスキルを引き継げるような仕事はできなかったようでした。

長くなりましたが、事実として私はこういう母の元に生まれ、その母を傍で見て育ちました。それ以外の親というものを知りません。そこに長女として生まれました。それ以外の自分の役割も知りません。

私は母が本当に大好きで大切でした。今も多分そうです。父親がいない家でしたが、母が再婚して今の父ができるまで、その必要性を感じたことは本当に1度もありませんでした。私たちがいるからいいよねと思っていました。母を支えているのは私で、その私が強くいい子であれば問題ないと思っていました。実際当時は(お金のこと以外は)何の問題もなく、問題がなさ過ぎてむしろ出来過ぎなほどでした。反抗期もありませんでした。だからといって別に私の心身に不都合はありませんでした。(しかしそのツケは大人になって出てきます)

そんな私の子供時代の行動指針は、母の期待に応えること。これが全てでした。そしてそれはとても楽なことでした。人の期待に応えるということは、かなり明確なゴールセットがあります。そしてその過程にいる限り、本当は自分がどうしたいかという難問に取り組む必要がなくなります。褒められる上にめっちゃ楽です。期待に背いてわがままを言えば、嫌われて捨てられるかもしれないとさえ思っていました。
と同時に、母のように女性が丸腰で労働市場に放り出される過酷さへの恐怖心を植え付けられました。女こそちゃんと仕事を持たなくては、という身近な存在からの脅迫観念。それが、心身ともに不安定な片親を一番近くで見続けた長女の私の思考のベースになりました。(なぜか妹は全くそうなりませんでした)

こういう思考の習慣こそがこの私の長女という疾患の特徴で、なかなか治せるものではありません。結構厄介です。親は全く望んでも頼んでもいないのでしょうが、こちらが勝手に演じている貧乏クジみたいなものです。もはや自作自演なのかもしれません。なのになかなか辞めることもできません。

とはいえ年を取ってくると、社会と関りを持ちながらそういう自分の歪みを客観的に捉えられるようになってきます。だからと言って歪みが治ることはたぶんありません。歪んでるなーとわかる程度です。特に仕事のキャリアを通じて失敗や挫折を経験することで、否応なくその歪みに対峙していくことになります。歪んだ意思決定の結果として大やけどするたびに、自分の行動基準が根本から間違っていたことに気が付かされます。例として、人の期待に応えること、嫌われないようにすること、などなどです。

この頼りない歪みの上に積み上げたキャリアが、一度音を立てて崩れてから、今に至るまで。まずは、高校時代あたりから思い出してみたいと思います。


つづく

#キャリア #自分史 #長女 #仕事



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