ストップモーションが楽しい理由
英国アードマン・アニメーションズの『ウォレスとグルミット』『ひつじのショーン』とか、米国LAIKAの『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』とか、あるいはフランスの『ぼくの名前はズッキーニ』とか。ストップモーション・アニメは世界中で人気です。
日本では今年に入って、テレビで『PUI PUI モルカー』も大人気になりましたし、今劇場で公開されている『JUNK HEAD』も大いに盛り上がっているようで、ストップモーション・アニメ好きにとっては嬉しいことです。そして5月から、そのストップモーション・アニメの日本におけるパイオニアと言ってもいいお二人、川本喜八郎さん、岡本忠成さんの特集上映が全国の映画館を回っていきます。
しかし「ストップモーション」って言葉、日本でいつ頃から浸透してきたものでしょうかね? 昔は単純に「人形アニメ」とか「モデル・アニメーション」とか言っていたように思います。歌手・桑江知子さんの1979年のデビュー曲(そこそこヒットしました)「私のハートはストップモーション」というのがありましたが、今、改めて歌詞を確認すると、マンションのエレベーターを降りてバッタリ出会った人に一目惚れしたことを歌っているようなんですね。その出会った瞬間が、きっと、ビデオで言うと15フレーム(半秒)ずつくらい静止画でパッパッパッと動くような、そんなニュアンスでしょうか。
自分が最初に意識したストップモーション・アニメというと、テレビの洋画劇場でやった『アルゴ探検隊の大冒険』(1963)に出てくる青銅の巨人とか骸骨剣士とか。その世界の第一人者レイ・ハリーハウゼンによるもの(監督はドン・チャフィ)。ハリーハウゼンって、アシスタントも使わずにほとんど一人でアニメートしてたそうですね。他の『シンバッド』シリーズなんかもそうですが、子ども心には人間の演じるドラマ部分が退屈で、早くこのコマ撮りの怪物たちのシーンにならないかとジリジリと待ち構えていたものです。大人になってくると、半裸のヒロインの方にも少し比重が移ってくるんですけれども、それでもやっぱりコマ撮りの魅力の方が勝つ。あ、『魔人ハンター ミツルギ』(1973)なんてストップモーションの特撮ドラマ・シリーズもありました。すぐ終わっちゃったけど。
1970年代後半~80年代の最初の『スター・ウォーズ』シリーズなんかでも、ちょこちょこストップモーションが使われてましたね。ミレニアム・ファルコン号の中で主人公たちが暇つぶしにやってる怪獣のチェスとか、『帝国の逆襲』のオープニングを飾るAT-AT(雪上を象みたいに歩く、帝国軍の巨大な兵器です)とか。
なんかカワイイですよね、ストップモーション。少し動かしては一コマ撮り、また少し動かしては一コマ撮る……それを24回繰り返してやっと1秒。動きもカクカクしてて、普通に人の動きを撮ったものとは違う、ぎこちなさも愛おしい。なぜぎこちなく感じるかというと、一コマの中でそれらは完全に静止しているからですね。人間の動いている映像を撮って一コマ一コマを見てみると、動きの速いところなんかは、コマの中でもブレてます。それらが連続するとスムーズに見えるのだから不思議なものですが、アニメの場合は一コマの中では完全に静止している。だからそれが連続してもどこかカクカクして見える。
前述の『スター・ウォーズ』シリーズでストップモーションを担当していたフィル・ティペットなんかは、このカクカクをどうにかしようと、一コマ撮影する間に人形を動かしてブレを作る「ゴー・モーション」という方式を考案したりしました。まあ『スター・ウォーズ』の場合は実写のドラマの中にストップモーションのシーンも組みこむわけで、なるべく違和感を無くしたいという熱意の表れですね。しかし、僕なんかはどちらかというとカクカクしていて欲しいタイプです。
いやしかし、カクカクしてるからという、ただそれだけで面白いわけじゃない。実写の場合は1秒の映像を撮影するのに1秒の時間で済みます。ストップモーションの場合は一コマを撮影するのに時間をかけようと思えばいくらでもかけられる(「いくらでも」というのは、スケジュールや予算のことを考えなければ、ですが)。つまり、作り手が意図する通りに細かく動かすことが出来るわけですね。現実の人間には不可能な動きだってさせようと思えば出来る。そこに作り手の「演技」が込められる。それは動かす人が考えに考え抜いて生み出された動きの場合もあるでしょうし、その人の癖のようなものが人形の動きとして表れている場合もあるでしょう。ストップモーション・アニメが何度も見たくなる、何度見ても飽きないというのは、一コマ一コマにそういう旨味が詰まっているからかもしれません。ある作品を初めて見るときは、ただ目の前で起こっている事象に圧倒されたり、ストーリーを追ったりするのに精いっぱいかもしれませんが、何度も見るうちに、細かな演技に込められた意味の深さに気づいたりするものです。
今は撮影もデジタル・カメラの時代ですし、そのちょっと前にはフィルム撮影の現場にビデオカメラも置いて、こういうストップモーションを作る際、その前までに撮ったコマを現場で確認しながら次のコマの動きを作ることが出来るようになりました。これだと、大きな間違いがないですね。しかし、レイ・ハリーハウゼンとか、川本さん、岡本さんの時代にはそんなものはなくて、そのカットを最初から最後まで撮り終えて、ネガ・フィルムを現像に出して、そこからポジ・フィルムを焼いて(ネガの上では明るさも色も反転した状態で記録されていますから、それをポジに焼かない限り、ちゃんとした映像で見ることは出来ないのです)、それを映写機にかけて上映して、初めて自分たちが長い時間をかけて作ったワンカットの仕上がりを確認することが出来たのです。上手くいけば「やったあ!」でしょうし、何か不都合があれば、また一からやり直しです。撮影には、今では考えられないような緊張感を持って臨まれたことでしょう。根性論みたいなことを言いたくはありませんが、しかし、その時代に生まれたものの持つ何かこちらに挑んでくるような迫力は、そうした真剣勝負の賜物であるかもしれません。
あと、ストップモーション・アニメの根源的な魅力に、それが本当は命を持たない、動かないものである、という「存在のはかなさ」のようなものがあるかもしれません。それらが動かす人間の技と映画フィルムのマジックによって、映像の中でだけ命を持つ。そして対象が生身の人間でなく、人形だからこそ、観る人が彼らの気持ちを余計に汲み取ったり、自分自身を投影したりといった、能動的な鑑賞体験を生み出すのかもしれません。
映画館の暗闇の中で、川本さん、岡本さんの諸作と共に、そんな体験をしていただければと思います。
*写真は今回上映する川本喜八郎『花折り』(1968)の人形。先ごろまで国立映画アーカイブで開かれていた展覧会「川本喜八郎+岡本忠成 パペットアニメーショウ2020」で展示されていたものです(写真:高木あつ子)。
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