大根役者としてデビューした、宇佐市民劇 南一郎平「命の水 絆の水」
疎水の父、南一郎平を主題とした演劇「命の水 絆の水」が2022年11月20日に公演され、『月刊 岩ときもの』の編集長は江戸時代末期から明治初頭の貧しい村の女役として自作の小道具の大根を持って登場する、大根(を扱う)役者として無事に舞台でお役目を果たしたところです。応援してくださった皆様、このような貴重な機会をくださった関係者の皆様、ありがとうございました。
南一郎平は、遠く17km先の山の向こうから、文明の利器もなかった時代に人力だけで水を引くという偉業を成し遂げた人。しかも、先代もなしえず何度も工事が中断し、150年の時を超えた壮大なる事業を完成させ、宇佐の高台の貧しい民の生活を救った偉人。(一郎平の住む高台から望む川の向こうの平野には千年以上前から水を通した豊かな田が広がっていたことを考えると、千年以上の時を超えた偉業だったのだろう)
こういった史実を元にした歴史もののお話は、根性論的な舞台になるんじゃないかと正直思っていた。しかし違った。お稽古が始まって台本をいただいた時に、タイトルを見ただけで私は涙し、開いて読んで号泣した。
主人公の小学五年生の子供がひょんなことから江戸時代末期から明治初期にタイムスリップして、その子の目から当時の人々の暮らしを観客に見せる。主人公が出会う人々とのやり取りで、生きていく上での自身の課題を見つけ、葛藤や心の機微を描いていく。そして自らの課題を越えようともがき成長していく様を魅せる作品となっていた。実在した一郎平が居た歴史の上に立たされた主人公壮太のセリフが、観ている自分(人)に響いたり刺さったりするのだ。大人も子供も。
演者の半数は演劇・ダンスが初めてで、私もそのうちの一人だった。上手(かみて)下手(しもて)も分からなかったし、客席に届くような通る声の出し方なんてさっぱり分からない。台本を「読む」ということすらも。分からないことだらけで不安すぎて正直、はじめの1か月で辞めようと思ったほど未知の世界だった。
それでもこの作品を世に出すための一員として関わりたいという気持ちが勝り(おこがましいことではありますが)、行けるところまで進んでみようと思って、8か月間、移動に往復4時間かけて、毎週日曜日は宇佐に通った。
どうなることか不安を抱えながら参加して、蓋を開けてみると、そこには劇の主人公壮太と同じように自らの課題を抱え、それを越えようとする人たちであふれかえっていた(私も含まれる)。老若男女、背景の異なる人たち。自分の持っているもの(表現だったり、持っている技術だったり、実際の物だったり)をおずおずと少し差し出してお稽古で試してみる。役に立ちそうなことは何でもとりあえず出してみる。そんな流れで稽古が進み、徐々に演劇としての形が出来上がっていった。
ここまで書くと、苦しみもがいて稽古をやっていたように映るが、そうでもない。お稽古中は割と面白事件が起こっていた。
人夫(作業現場を担う男の人)役の人が、小道具の10連結のロングおにぎりにかぶりついて「そこ、なんかおかしいよー?」と言われたり(後にちゃんと一個ずつ独立した、頬張れるように作られたおにぎりが足されていた)、その横で処遇が定まらずに流れでやってきた小道具の大根を丸かじりする演技をする役者に「作業現場の昼飯に大根を丸かじりなんてしないでしょ!」と指摘する演出家に対して、「目の前にあったら使いたくなるよなー」と返すところには笑ってしまった(その後、大根は無事に行先が定められた)。
水が通る最後のシーンでスローモーションの演技をしなければならなかったとき、演技に慣れない子どもの前で、「ほら見てぇ、水がアメーバみたいに落ちていくよ~」と子どもたちに説明しながら演じている大人がいたりした。その後、笑いをこらえてアメーバみたいな水を想像しながら演技する子どもたちがいて、これにも笑ってしまった(本当は感動のシーンなのだが)。
元校長先生が忙しさに追われ、セリフを覚える時間が取れないようだった。「オレは今まで子どもたちに覚えろと言ってきたが、ようやく子供たちの気持ちが分かった」と、申し訳なさそうにつぶやいた。そして次の週、「オレはもう大丈夫だ!」と、肌と同じベージュ色の布テープの上にセリフを書き腕の内側にこっそり貼りつけ稽古に挑んでいた。完璧と思われたその策は効果をみる前に「見えてますよー」と指摘され、一瞬で見破られる。先生も人間だ。(その後、きちんとセリフを覚えていらした)
劇の終盤、貧しい村の女役として、川向うの男と恋仲になった自分の娘がいちゃつくところを見て「こら!」と声を上げ怒る私を、両脇にいる村の女二人に肩をつかまれてなだめられながら引き戻されるという場面があった。私の横には、小学2年生の男の子が居るという立ち位置だ。年端のいかない小さな子どもの集中力が2時間も持たないんじゃないかと心配していたら、彼はきちんとそのシーンが来るのを待っていた。「僕もおばちゃんを引っ張るから!!」と目をらんらんと輝かせて待っていた。「引き戻す」ことが彼にとってお楽しみのアトラクションの一つとなっていたのだった。そして本番ではそんなことをおくびにも出さずしっかりと私の腕をつかんで引き留める演技をしていた。天才が隣にいた・・・
練習中は、自信なさげに膝をかかえて存在を消すかのように座って居た子が龍神太鼓の奏者と分かり、神がかり的な太鼓で魅せる。しっかりと自分の足で立ち前を見据え、劇の後半の入りの大切な部分を担う。彼女の中の不安よりも表現者として立つ気持ちのほうが超えた瞬間に立ち会い、心が震えた。
本番直前のテクニカルな確認作業の中、誰もいない舞台の上で寸暇を惜しんで粛粛とバレエの基礎練習を重ねるダンサーの、バックライトを浴びた美しい踊り。プロの世界を垣間見る。
本番終了後の楽屋で、私の背後でどっと泣き崩れる女の子。普段と違った自分を演じることと、若い子らをまとめ、時には声を大きく、時にはおどけて過ごした彼女の背負ったものは大きかったろう。
あっという間に幕が下り、私は三日三晩泣き暮らした。感動した涙と、非力な自分への悔し涙だ。
私は作り手側として居たい。
私も人の心を動かす作品を世に出す側に居たい!と思っている自分がいた。
生きるとは、自分の中にある何かを使って表現すること。
この、宇佐市民劇 南一郎平「命の水 絆の水」に参加して得たものはこれに尽きる。
追記.
「市民劇だというから大したことないと思っていたが、本格的な劇で驚いた」と思われたみなさま。演者、ダンサーとして参加した演劇初心者も(私も含めて)、「え?これって本物の(本格的な)演劇じゃないか・・・」と尻込みしながら練習を重ねてきたので、同じ想いで劇に臨んだ次第です(^_-)-☆