まっさらな自分から書き始まること。

立春を越えて自分の居る土地にひさしぶりの雪が降った。

雪は神聖なるものだ。真っ白に世界を変えてくれる。
そしてその姿を朝日のなかで眺める時間は至福だ。

全てが、まっさらに、なる。

さまざまな経験をたらふくため込んだ身体を
暗闇に投げ込むように眠りに導いて
光のなか目覚める朝は、まっさら、だ。

このまっさらな状態のなかで
立ち上がってくるほのかなインスピレーションが好きだ。

それは

今日の行動の優先順位じゃないこと
昨日まで考えにも上がらなかったこと
たわいもないこと、だったりする。

けれど、ゆっくりそれを身体で転がすように感じていると
現実面で自分が求めていた何かと握手をはじめる。

例えば、今日のこのNote。
まっさらなところから、キーボードを打つ。
ただそのほのかなインスピレーションのままに。

誰にもあおられることなく、自分も慌てることもなく
何か世間に物言うでもなく
あさ目覚めの、まっさらな自分がそのままベッドから起きて

まっさらなことをNoteに書こう、と思った
ただそのほのかなインスピレーションのままに。

これは
自分のためにケーキを焼くようなものだと思う。
誰の満足でも、自分の満足でもなく

まっさらな自分が書き始めることに
自分が興味を持った、ただそれだけのままに。

ときどき朝、頭を通過しないで
文章や言語がふんわりと身体に宿る。

身体の活動の道筋を観察していると
それはなんてことない食事の結果、
なにかしら日中の行動の源となっていたり

それを繰り返す自分の身体の営みを
あらためて面白く感じるものだったりする。

インド古典音楽のプラクティスのようなことは
日々、このようなまっさらな自分から始まる。
朝日が地上に訪れていくあたりを共にし、
まっさらな自分と音を宇宙に融合していくような
とても不思議なひととき。

あのようなことを、書くことであったり
布団のなかでぬくぬく味わっていたり
いろんなことを試し観察する。

私の生きるなかでの好きな行動は、観察である。
だから今日のNoteのこの行動も
書きおわってから、わたしの観察がはじまる。

まっさらな自分が打つキーボードから
ログとなったものが終わったら。

明日、このNoteに書くかどうか自分へ詮索することもなく
私は明日のまっさらな自分に興味がある。

わたしに明日の朝があるならば
どんなまっさらなのだろう、かと。



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