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日本の浮世絵を救ったお雇い外国人フランシス・ブリンクリー (通称ベンケイ)

明治維新により古美術界に大きな出来事がありました。
それは古美術品の大暴落です。
廃仏毀釈、徳川家は800万石を取り上げられ、駿河70万石に領地を変更されることによる江戸退去、参勤交代の廃止による各諸藩の退去などで古美術が大暴落し、それは浮世絵も同じでした。
浮世絵は1枚蕎麦の値段(そばは16文、浮世絵は16文から24文くらいだったので、厳密にいえば蕎麦よりは少し高い)なので現在の雑誌やポスターと同じ感覚の消耗品でした。
浮世絵を壁に飾れば時とともに色が落ち紙は焼けてきますが消耗品なので気にしません。
お土産などで買った人は現在のポスターのようにしばらくの間飾って楽しむものでした。
それ故、消耗品なのでそれが後世に残るなんて言うことはないはずなのですが、浮世絵にはたくさんのコレクターがいて、そのコレクターは、まず桐の箱や引き出しに集めておいて、たくさん集まったらそれを表具屋に頼み画帖(アルバム)にして保存していました。
それ故、画帖にして保存した浮世絵は体色もせず、摺った時の色彩を保っていました。
現在の浮世絵で明治以前の浮世絵で色彩が綺麗に残っている浮世絵はほとんどが画帖です。
ただ、明治以降、夜店で中古の浮世絵を売る場合、画帖では高くて買い手がいません。
そこで、夜店の店主は画帖を水につけてはがし、バラバラにして1枚1銭(そば1杯の値段)で売っていました。
画帖は屑屋に行けば腐るほどありました。
明治時代、前記した如く、古美術品は大暴落をして、浮世絵コレクターも価値の無くなった浮世絵の画帖を屑屋に出してしまったのです。
ただ、画帖は作り方により、絵だけを残し余白を裁断したり、横版の浮世絵の場合、小さくするために折り畳みの画帖にするために真ん中に縦の折れ線が残ったりしました。
北斎の『富岳三十六景』の良品の真ん中に折れ線があるのはそういうわけです。
おそらく、この明治の時期に捨てられる運命にあった浮世絵は100万枚を超えていたでしょう。
それだけ浮世絵コレクターがいたというわけでもああります。
何しろ、現在では国宝、重要文化財になるであろう仏像なども、金箔を取るために燃やされたり、室町、江戸期の有名画家の掛け軸も二束三文で売られていたのです。
そんな時代に、浮世絵が価値のある物にならないとコレクターもあきらめてしまったのでしょう。
この時代にそのような古美術に群がったのが日本政府が呼んだお雇い外国人です。
高給取りで為替の差異もあるのですからお雇い外国人からすれば日本の古美術品はただみたいなものでした。
それに本国に持って帰れば何十倍になって売れるという目論見もありますから、お雇い外国人たちは休日の度に古美術品を買い漁ったのです。
お雇い外国人だけではなく欧米の金持ちも日本に来日し、古美術品を買い漁りました。
それが今日、世界中にある国立美術家の日本美術の根本をなしているのです。
日本の美術品が全て世界に奪われる、という考え方もできますが、日本の美術品が世界の人に守られ、世界中に収まっているという考え方もできます。
そして浮世絵はまさに後者です。
お雇い外国人が中古の浮世絵を買い漁ってくれなければ、おそらく100万枚に近い浮世絵が窯ゆでにされ、リサイクル後再生紙になってしまっていたでしょう。
そしてその浮世絵を救ったのがお雇い外国人のフランシス・ブリンクリー (通称ベンケイ)なのです。
浮世絵界の大恩人のベンケイさんですが、彼はそのことよりジャパンウィークリーメール紙を買収、経営者兼主筆となって、親日的な態度により日本の立場を擁護しつつ、海外に紹介していたことや河鍋暁斎の付き合いの方が有名です。
そのベンケイさんと浮世絵(歌麿)の出会いを『紙魚の昔がたり』 から抜粋をします。

【竹田恭次郎の叔父(元禄堂、吉田金兵衛、通称吉金)は明治中期の浮世絵商の草分けの一人で、もともとは銅の原板を金槌で叩き、薄く引き伸ばす商売をしていました。
明治10年に鹿児島戦争があり、その後不景気になってしまったので、仕事が無く、そこで前から趣味であった錦絵(浮世絵)や三文本(赤本)を夜店で売ることにしたのです。
明治12~13年の頃、そこに外国人でベンケイさんと言われている人が錦絵を買いに来ました。
ベンケイさんとはフランシス・ブリンクリーのことで、ブリンクリーが言いづらく、ベンケイと呼ばれていました。
そのベンケイさんが叔父の錦絵を見て「コレ1枚イクラデスカ」と訊いたのですが、言葉が分からないので指1本を出したところ錦絵を50枚抜き取り5円を払いました。
指1本とは1銭のつもりだったので50枚で50銭、おつりを4円50銭、返さなければならない。
どうしようと思った時にはベンケイさんはスタスタ去ってしまいました。
まごまごしていたので、どうしようもなく店じまいをして早々に帰ってしまいました。
これは儲けたと思いましたが、また会うと厄介なので、今度は違うところで店を開きました。
当時は、夜店を開くところはいくらでもあったのです。
するとまたベンケイさんがやってきて30枚ほど錦絵を取り出して3円置いて帰っていきました。
そこで、これは1枚10銭で買ってくれていると分かったのです。
次にベンケイさんが来たときは、こちらも落ち着いていたのでどんな錦絵を買うのか見ていたら、全て歌麿でした。

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ベンケイさんは「これいくらでも買います」と言うので「揃えておきますから毎日買いに来てください」と言いました。当時は古錦絵がいくらでも買えたのです。買えるところは屑屋の建場で屑物が集まるところです。屑屋の建場は下谷にも浅草にも神田にもどこにでもあり、おそらく五町か十町の間に一軒はありました、紙屑類の問屋です。古浮世絵は、この問屋から千住の紙漉場に持っていって窯うでにしてしまうのです。だからその建場に、荒縄で縛った古錦絵がいくらでもありました。古錦絵は1枚1枚で売るのではなく1貫目15銭か25銭で売っていました。古錦絵は画帖になっており1貫目で100~200枚古錦絵がありました。】

この吉金が歌麿を買い漁るのが評判になり、他の浮世絵を商売しようとする人が屑屋で浮世絵を買い、そのうちに歌麿だけではなく古浮世絵、中古の浮世絵も買われていくのです。
そして、それが後の大浮世絵商となるサミュエル・ビングの目に留まり、1883年には、パリに1870年代の古浮世絵が登場します。
おそらく、この時期あたりに北斎の『富岳三十六景』も広重の『保永堂東海道五十三次』もパリに渡ったと思います。
吉金は歌麿が見つからなくなり歌麿の模造浮世絵も造りましたので、他の人も模造浮世絵を造ったと思われます。
これがパリに渡り偽物の模造浮世絵の氾濫となり、今でもその模造浮世絵は本物(ほとんど歌麿)として出回っているのものたくさんあるのです。

このベンケイさんが夜店で歌麿を買い漁らなかければ、100万枚くらいの浮世絵はこの世になかったのです。
ベンケイさんではなく、他のお雇い外国人が買い漁った可能性はありますが、時間とともに浮世絵は窯ゆでにされていったのですから、それが1年遅れただけでも大量の浮世絵がこの世にはなかったので、ベンケイさんは浮世絵の救世主と言えるのです。

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