区民が建てた川上分校
川上分校文集より
当大飯町(現在は合併しておおい町)は古来より子弟の教育には熱心で、明治40年の義務教育6年制までにも児童の就学率の向上に努力がなされております。
けれども現在のように100%の就学歩合ではなかったようで、明治34年日新校の就学歩合90.24%、理性校82%が記録されており、明治35年は、佐分利校男子100%、女子95%、岡安校男子97.56%、女子98.36%が記録されております。
しかし川上校においては明治35年以来ずーっと100%の就学率になっています。(郷土誌大飯による)これは川上地区では特に子弟の教育に熱心であったことを物語るものでしょうか。その熱意の現われが川上分校改築工事でなかったかと考えられます。
この川上分校は、日本でたった一つしかない学校や。なんで一つしかない言うと、川上の人等が銭を出して建てた校舎やさかえや。
普通学校建てる言うたら、町や村の財源で建てるんや。勿論国からの補助金もあるがの。どっちにしても、その金は町民や国民の税金なんや。けんど、川上分校の校舎は、そんな税金を一銭も使わんと、川上の人らの銭で出来とんのや。
しかも鉄筋コンクリート建てで、これが出来た時にはまだ日本国中でも鉄筋コンクリートの校舎は珍しかった時分や。
出来上がったんは昭和34年や。建て替えせんなん言う話が起きたんは、それよりだいぶ前やったがの。それまでも、もう古うなっとったし、28才(年)の台風でやられたもんで、建て替えせんなんようになったんや。
そんで、役場へ行って話するやけっと、役場の人ら建て替えんなん言うことあわかってくれたやが、何せ先立つもんは金や。
その頃の大飯町は、ほんまに貧乏やった。福井県の中でも一番の貧乏町や言うてもええぐらいやった。
なんで貧乏やった言うと、28才の台風でコッピドウやられて、その復興にぎょうさん金がかかったんと、大島・本郷・佐分利と三つの村が合併して大飯町になったやが、銭の入ってくるとこぁあらせんし、その頃犬見や大島へ通とった定期船も町営で赤字ばっかりやった。
財政再建整備団体いうて、1円の金使うんでも、国や県の許しを受けんとあかなんだんや。昭和34年の歳入額がたったの3000万円も無かったんや。(2976万9000円)
そんな中で校舎建て替えてくれ言うても無理な話やった。木造校舎でも2〜300万円もかかったやろでな。
そんなら川上の人等だけで校舎建たんやろか言うて、みんなで知恵出しあったんや。
そりゃー、何べんいうて寄り合いした。そんで結局、川上の区有林の木売って校舎の財源に充てよかいう話になったんや。
山の木いうても、一人で大きなったもんやらせん。川上の御先祖さん等が大事に大事に育ててきた木なんや。その木を切るいうことぁ忍びがたえことやったけっと、子供等の為ならええやないか、木はまた植えとけば大きなる、言うてみんなの意見がまとまったんや。
どっちみち作るんなら、木造やなしに鉄筋コンクリート建てにしょうかいな、言うことで、600万円の財源を作り出したんや。
その頃は川上分校も賑やかで、1年から6年までで64人もおったのー。
(川上 三谷英雄さんの話を参考にして構成)
川上の学校の歩み
明治 6年 川上地籍、清源寺を仮校舎に充て敏求小学校を設立
三森・久保・安井・川関・石山の児童が通う
明治12年10月 歓喜寺に移り授業開始
明治13年 3月 杉左近伝蔵氏の木屋を借りて授業を行う
明治15年 3月 川上村字左近谷に校舎新築
明治20年 4月 簡易科敏求小学校を改称する
明治25年 4月 校名を敏求尋常小学校と改称
明治28年 4月 三森を学区に組入れる
明治33年10月 川上字的場付近に校舎を改築する
大正 3年11月 校名を川上尋常小学校と改称する
大正13年10月 校舎を改築・移転する
川上尋常小学校を廃して、佐分利尋常高等小学校の
分教場となる
昭和16年 4月 佐分利国民学校を設置する
昭和22年 4月 校名を佐分利小学校川上分校と改称する
昭和23年 9月 3学級編成が認められる
昭和34年 9月 鉄筋コンクリート造り2階建新校舎完成
昭和47年 5月 へき地1級地の指定を受ける
昭和60年 8月 全天候型グラウンド工事完成
平成 7年 3月 佐分利小学校に併合となる
校舎は改装されて川上公民館となる