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山腹を這う水路(大井根)

言わずもがなのことですが、米づくりには大量の水が必要です。
その水を得るために先人は様々な工夫を凝らし、惜しみなく労力を注ぎ込んできました。ここ川上区においては、「大井根」と呼ばれる全長1Km余りもある山中の用水路がその最たるものだと言えます。

落葉と土砂が積もり山道の様になった大井根跡(博城山腹)

大井根は新鞍谷の西谷口から取水し、神水・博城(はかましろ)の山腹を高巻きにして大柳まで長い間谷水を運んできました。
この水路は、400年程前にこの地に移り住まれた治右門家の先祖、大柳権之守が考案し、工事の指揮を執ったと云われています。夜間の山腹に提灯を持った人を何人も並ばせ、その灯を谷の向かい側、通称「忠の八ヶ久保の段」から大柳権之守が目測して測量が行われたということです。
立地とその延長から、水路の開削に多大な労力が必要だったことは想像に難くありません。工事はおそらく何年にも渡るものだったでしょう。

開削後も維持・管理は一筋縄ではいかなかったようです。春、田んぼに水を引くための井根仕事だけで二日がかりでした。一日目は素掘りの水路に積もった落葉や土砂を取り除く作業、二日目は痩せてしまった水路肩を補強したり、水路の修復のために費やされました。

散々苦労して水を通しても一週間もすると水の量が半減していきます。漏水しやすい素掘り水路の上、沢蟹などの生き物が水路に穴を開けるためで、定期的な見回りが欠かせませんでした。また途中いくつも小さな谷や沢を横断しているため、大雨後の復旧は特に大変だったと思われます。明治3年と昭和28年の水害は特に酷く、昭和28年の13号台風では、いくつもの箇所がコンクリート二次製品で修復されました。

新鞍谷から続く大井根のルート


この様に毎年苦労を重ね、何代にも渡って大井根は大切に守り続けられ、水利は現代まで受け継がれてきました。
水路がようやくその使命を終えたのは昭和57〜58年頃の耕地整理の時です。継ぎはぎだらけの大井根は新鞍林道地下に埋設されたパイプラインに置き換えられ、現在はコックを捻るだけで新鞍谷の清水がほとばしり出て来ます。
二日がかりの大仕事だった井根仕事も、ようやくこの時から二時間程の作業で済むようになったのです。

(ふるさと探訪 第二回 三谷義太郎氏:新鞍谷の記述と、その後の聞き取りを元に構成)


大井根を歩いてみた

この用水路のことは郷土史やたの村の季刊紙で知ってはいましたが、実際に見るのは初めてでした。
現地に行ってみてまず驚いたのは、水路が想像よりもずっと高い所を通っていたことです。
山腹を延々1km余りも切り欠いて設けられたこの水路。工事は言うに及ばず、維持管理にも恐ろしく手間がかかるであろうことは素人目にも明らかです。
大柳の横を流れる野逕渓川からならもっと楽に水を引けたはずですが、わざわざ新鞍の上流から用水を引いてこなければならなかったのも何か理由あってのことでしょう。野逕渓には物理的に用水路を設けられない制約があったか、水の利用配分がキッチリと決められていたからか。

大井根の終着点
山中を巡ってきた用水はここに辿り着きました。
大井根は山腹のこの辺りを通っています。(博城)
うるし谷から用水路跡を辿っていきます。
このあたりは保守作業がたいへんだったようで、殆どがコンクリートの水路となっています。
地盤が流失したためか、10m程がコンクリート管渠に置き換えられていました。
植林のすき間から
新鞍谷に入る手前、この辺りの景色がとても良い感じ。
水路肩はよく踏み固められており、古道のような雰囲気です。
水の流れている迫はブロック積擁壁で水路地盤が補強されていました。
新鞍谷に入ると路肩の崩れや水路の損傷が目立つようになります。
妻ヶ谷口の対岸辺りでは土砂崩れで10数mに渡り水路跡が消失していました。
路肩が崩れ、さらに土砂が被さってくる難所は塩ビ管で対応。
石積砂防が見えるとそろそろ水路の起点になります。
この石積砂防が明治以降の大井根取水口となりました。
それ以前の取水口は、もう少し上流の西谷口だったとのこと。


元記事の投稿日時 2009年3月 5日 (木) 12:58