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山中に消えた摩野尾山一乗寺

かつて宝尾の山中にあったという摩野尾山(まやおさん)一乗寺は、初めてわが国に仏教が伝わった6世紀中頃、欽明天皇による開基といわれ、最も初期に一乗仏教が根づいた地と伝わっています。
舒明天皇の勅使により本殿が建立(631年)されたという宝尾蔵王大権現や、天武天皇が奉納されたという霊剣など、時の天皇からの庇護はひとかたならぬものがあったようです。八間四方の高塔をはじめ、七堂伽藍や三十六坊を誇る大寺院であったといいます。
しかしそのように栄華を誇ったこの寺院も、その寺格を鼻にかけたがために孤立し、ついには寺領を召し上げられた上に討伐を受け、衰亡していきました。

左大臣の準官で蔵王大権現の神主だったという藤原氏(左近太夫家)とその一族は、寺院が滅びた後も宝尾蔵王大権現を護ってこの山中に留まり、昭和初期まで厳しい山での生活を営んでこられました。今では一族全て里に下りて生活され、宝尾の権現も川上の神社に合祀されています。
「宝尾山縁起」はこの左近太夫家に伝わる文書で、江戸後期の明和年間(1764〜1772年)に書き写されたものといわれています。宝尾についての文書は他に現存しないため、往古の宝尾を伺い知る唯一の資料となっています。

「烏とまらず」と呼ばれる峰を川上から見上げると、その少し下あたり(標高約350m)に、周りとは植生の異なる一帯があるのが判ります。そこが宝尾の集落跡で、異なって見える植生は密生した竹と廃村後に植林されたスギやヒノキです。
その集落跡の西側に庵壇(あんのだら)、向かん壇(むかんだら)と呼ばれるなだらかな一帯があって、そこに寺院が建ち並び、背後の烏止まらずの頂上に高塔がそびえ立っていたといわれています。

しかし多少の誇張はあるとはいえ、七堂伽藍や三十六坊といった言葉で表されるような大寺院がこの地だけに収まりきるとは思えません。縁起でも七堂の位置はおおまかに示されていますが、三十六坊の位置は特に記されていません。
宝尾の周囲には他にも牧山や大田和の山中に寺院があったと伝わっており、これらは一連の尾根筋に連なるひとつの山岳仏教圏として威勢を誇っていたとも考えられます。


川上の集落から宝尾を望む(左端の山の奥にちらりと見える頂が烏とまらず)