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栃の実物語

以前おおい町文化協会発行の広報誌に掲載された、渡辺 均氏『栃の実物語』の内容に写真を追加して掲載します。


なめり谷の栃の大木(平成21年6月撮影)

佐分利川に沿ってこの谷を奥へ入ると、久保と川上の山にだけ大きな栃の木がある。

どういうわけか佐分利川の右岸側の山で、北側を向いた斜面にのみ生えている木である。
川上の山には何本もあるが、村の古老の話では幹周りが5~6メートルにもなり、樹齢が何百年になるか分からない木があると云う。

しかしどの木も谷の非常に険しい所に生えていて、木の元まで行くのが難儀である。
永い間、厳しい風雪に耐えて生き残っている栃の木が、春になると『ぱあっ』と白い花を木一面に咲かせて、九月になると実を落とし始める。


昔から自然の食べ物の中に、栗・椎・楢・榧・栃などがある。
山栗は今ではほとんど枯れて少なくなり、残っていても栗は猪の餌になって人間の口にはなかなか入らなくなった。

しかし栃の実だけは猪も食わないし、虫もあまりつかないようである。したがって人間の口に入るわけだが、野性の生き物が食わないものを、どうして人間がこれを旨くして食べえるのだろうか・・・。

そのへんの人間の知恵を探ってみることにした。


栃の葉(これで一枚の葉っぱ)
栃の花

【体験1】

栃の木ってどんな木だろう、
栃の実ってどんな実だろうと思う人が多い。
文化少年団の中にも、子供は勿論のことその親さえも知らない人がほとんどであった。
以前なら栃の木の有る所なんて子供はおろか町の人では行けたものではなかったが、
今は林道が出来たお陰で、容易くたどり着くことが出来るようになった。
一面に生えている山の木の中でも栃の木だけはどの木よりも飛びぬけて大きい。
その大きさにみんな一様に「大きいなあ・・・」と驚きの声を上げた。
しかし、これよりも、もっともっと大きな木があるのだが、
そこへはあまりにも険しくて、とてもたどり着けるものではない。

栃の実は昔の貴重な食料、炭焼きの人も切らずに大切に残しておいた。
それで他の木よりもひときわ大きい。

十月に入ってからのことであったからもう実が終わっているかと思ったが、晩生の木の実がまだ少し残っていた。

子供たちは、手に10個、20個と、山の中を駆け回って拾ってきた。
拾った実は、一見して栗の実に似ている。
鎌で皮を剥いて、子供たちに実をかじらしてみた。
みんなが「げぇっ、げぇっ」と吐き出した。
苦くて、えがらかったのはいうまでもない。

「何でこんなもんが、食えるんや」とみんなが声を上げた。

さて、それを美味しく食べられるようにするのが人間様の知恵であった。

実(種子)は右の写真のように固い果皮にくるまれている


栗饅頭のようにつやつやして、一見すると栗よりおいしそう


【体験2】

そこで、栃の実を触らしたら名人と云う栃餅作りの達人、清左のカヅ子さんに指導してもらい、体験をすることにした。

先ず山で拾ってきた実は一晩水につけて、浮くものは捨てる。
天気のよい日に筵に広げて干す。
秋の日差しは湿気が少ないのでよいと言う。

実がかんからに乾いたら、米の空き袋に入れて保存する。
昔は馬笊に入れて保存していたと云う。
これを食べられるように加工するには
先ず乾いた実を水につけて戻す。

水がさらさらと流れている小川に10日ほどつけてから、柔らかくして皮を剥く。

筵に広げて干されている栃の実
9月頃、軒先で干してあるのをよく見かけます

子供たちは、この皮を剥くところから体験した。
皮を剥く道具が、これがまた何十年も使い込まれた代物であった。

いかにも単純な作りで、台になる平らな木の上に曲がった木を先のほうでくくりつけただけのもので、斜めにこぜながら皮を剥くのである。
上から押すと実はつぶれるだけで、皮は一向に剥けなかった。

子供たちの苦闘が始まった隣で、達人がしょこ、しょこと簡単に剥いて見せた。
単純な道具ほど使いこなすのにこつがいるのだと知らされた。


栃の皮むき道具


片方を足で踏んでおき、栃の実を挟んでこじらせる
お婆さん用とお爺さん用の二つが並べて干してありました


皮を剥いて少し渋皮のついた実は冷たいさらさらと流れる小川に
布の袋に入れて3昼夜つけられる。

左近谷のとば口のところが少し深くなっていて
浸けておくのに丁度よい形状

こうしてみると、いかにきれいな水が流れている環境でないと出来ないかが分かった。
しかし、この工程まではさほど難しいことではなかった。

水にさらした栃をたっぷりの水で3時間ほど煮る。


この写真を撮った時は約4時間煮ておられました
煮上がった実を食べてみたら、やはり苦くてエグい

そして湯が冷めやらぬうちに、木灰を入れる。
灰の量は栃の実と同量だと聞いた。
灰と栃を混ぜて、こってりとした状態で暫くおく。

煮たあとは45〜50°になるまで冷まし、灰を混ぜ合わせる。
手を浸けて十数えられるくらいの熱さ、とのこと。
灰の量はこのトロ箱一つにつき三升。混ぜ終わるとちょうど45°Cだった。
このまま蓋をしてゆっくりと冷ましていき、一昼夜おくと渋味がなくなる。

これを川で洗って、灰をきれいに流して取れば栃の実は食べられる状態になると言う。

この工程を「栃に灰を合わす」と呼ぶ。

この工程は非常に難しく、達人の奥義が如何なく発揮される部分だった。
栃の煮る具合と、灰を入れる頃合いと、木灰その物の質あたりが重要であるらしい。
達人は「なんにも難しいことやないんや」とおっしゃるが、子供たちには勿論のこと、私たち素人には手の及ばぬ技だった。
ちょっとした灰の仕方によって苦くてとても食い物にならなかったり、腑抜けのようになって味も素っ気もないものになったりすると聞く。

ちょうどよい加減というのが達人の域であり、この辺が灰の良し悪しで決まるのだろうか。
ただ達人の手際のよさを見てみんな感心するばかりであった。



【体験3】


待ちに待った栃餅が食える日が来た。
二晩水につけたもち米1.5升と栃の実1.5キロを混ぜて一緒に蒸す。

1時間もすると、栃特有の香りがぷーんとしてきた。
1時間半ほど蒸して、木臼で手早く小搗きを十分にしてから本搗きをするのである。
白い餅と違って早く硬くなるので、手早くやってしまうことが大事だとおっしゃる。

濃い茶色の艶のある餅が搗き上がった。
達人は、餅を取りながら餡を入れて丸める。
二つのことを同時にする早業の取り餅をなさる。
その手際のよさにはみんな驚いた。
普通はちぎって取り、手の上で平らにして餡を置き丸めるのだが、このあたりもまねの出来ない早業であった。

体験した子供たちに、丸めた餅が三つずつ配られた。
口の中でもぐもぐしながら食っていたが、眼を白黒させながら「うまぃ」といった。
山で栃をかじった時のあの苦々しさを思い出したのだろうか・・・。
その子供は、残り二つを食わずに大事にポケット入れた。
「家へ帰って、おばあちゃんに食わしてあげるのだ」といった。

今の子供たちに、洟を垂らしていたり、おできをつくっている子はいなくなった。
その代わりわけの分からぬ、アトピーとか、喘息とか、花粉症みたいなのが出てきた。
素人には分からないが、食べ物との関係はないのだろうか。
日本民族のDNAの中には、穀物を食べて、粗食に耐えられる遺伝子が含まれていると聞いたことがある。
現在の食事情は、多様化・高級化の中で、すっかり肉を中心とした欧米様式になった感じがする。
この現代社会の中で、日本民族の昔の古きよき時代の、黍や粟の食文化に触れることも大切ではないだろうか。
厳しい自然の環境に生き続ける栃の木と、その自然の恵みを食文化に生かし、
若い世代へと受け継がせようと努力されておられる達人に感謝したいと思う。

おおい町文化協会 渡辺 均 氏『栃の実物語』より