「すいば」ということ
子供の頃、わたしにはいくつかの「すいば」があった。下鴨神社糺の森に、そして鴨川支流の高野川に、「自分だけの特別の場所」があった。
京大理学部の植物園の中にもあった。湯川記念館の裏手にあった桜である。夏休みの朝日が昇る頃、この桜の樹には幹の枝分かれした部分にたっぷり溜まった樹液を吸うため、クワガタ、カブトムシ、コガネムシなど、それはそれは、たくさんの虫が集まっていた。けれども大型のスズメバチもいるので、欲しい虫をうまくたたき落とすには熟練の技が要った。
先日、数十年ぶりに理学部植物園を訪ねた。正門入口からの小径は昔のまま、ザリガニ採りに興じた池までつながっていた。夏の季節であり、コロナ禍で人の出入りも少ないためか、草木が繁茂し、かってとは異なり、樹冠が空を覆って暗い林になったように感じた。そして、残念なことに、その奥に昔あったはずのサクラの樹木はすでになかった。
「すいば」というのは独特の表現で、自分や友達だけの秘密の特別な場所として、子供仲間ではよく通じた言葉であった。でも、どのような漢字を当てるのか当時は全くわからなかった。長じて、せいぜい「好い場」か「粋場」と思っていたぐらいであった。
ところが、数年前、明治期の南方熊楠(1867~1941)が「萃点(すいてん)」という言葉を使っていたことを、京大大学院思修館の修了生、Yさんから教えられた。萃点というのは、熊楠の造語のようで、水が集まる沢を表象し、さまざまな物や事の"ことわり"が通過、交差する地点、つまり要(かなめ)を表すらしい。そうすると、「すいば」は「萃場」ということになるのだろうか。
萃点は、「さまざまな因果系列、必然と偶然の交わりが一番多く通過する地点……そこから調べていくと、ものごとの筋道は分かりやすい。すべてのものはすべてのものにつながっている。みんな関係があるとすればどこからものごとの謎解きを始めていいかわからない。この「萃点」を押さえて、そこから始めるとよく分かる」とある。ものの世界は物のことわり、つまり、物理をはじめとする自然科学の世界であるが、ことの世界は世の中の現象が対象であり、社会の一過性のできごとや事件にことわりを見つけるのは容易ではない。
したがって、上記の文章は、一事は万事につながり、どこから解きほぐしても核心に届くが、萃点から始めるのが近道だと言っているように思える。複雑な事象も、ものごとの萃点を見つけて、そこから解きほぐせばよいのである。このことは、「俯瞰的視野」からものごとを捉えることに通じるように思う。
とくに、これまで経験のない新たな課題に直面したときには、演繹的に敷衍する手法は難しく、帰納や仮説推論が有効である。空間と時間を通じて、類似のさまざまな事例を比較/検討して、その交わりを探すことが有効であることを示唆している。南方熊楠は粘菌の研究でよく知られているが、博物学の分野でも活躍した。植物学、生態学、社会学、民俗学にも深い造詣があったが、俯瞰的な思考法がその研究を支えていたのであろう。
思修館のリーダー人材教育で、常々「俯瞰力を身に付ける」ということを学生に伝えてきた。そのための方途として物事を多元的に捉えること、そして複数の物差し(軸)を満足する解を探すことを学生に求めてきた。鳥の目のような俯瞰的視野からコンセプトを抽出し、一方、実行に際しては虫の目をもって緻密におこなう、複眼的な思考力を身に付けて欲しいと考えたのである。
思修館を離れてから、改めて、その教育と思考の意義と方法について想い巡らすことがあるが、俯瞰的なものの見方が生態学者であった熊楠以来の伝統ある思考法であることを知って大変心強く、またうれしく思った。
写真:京都大学理学部植物園
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