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I am in a gray area...

    ある日のこと、ソファに腰掛けていた夫が爪の脇の皮を噛んでぼんやりしているのを見かけたので、何考えてるの?と聞いたら

I am in a gray area.   
といいました。
・・・なぬ?

    この場合のグレーエリアってなに?と聞くと
次にするアクションを決めかねているので、次にやる事と今までやっている事(ソファで休むこと)の中間地点にいる、ということでした。
グレーエリア、日本人だとグレーゾーンと言いますね。普通なら白黒はっきりしない事という風に観念的に使うことが多いです。
このようにも用いることができるんだ、というのは発見でありました。

 グレーは灰色。灰色といえば、中学生の時にある教師から言われた「あなたの人生は灰色です」という言葉。

 その当時の細かな状況は覚えていませんが、80年代の日本の学校では体罰が横行しており(場所にもよるかもしれませんが、概ねそんな感じでした)、そのような手段を取る教師に私はかなり反抗的な態度を取ったり授業中に居眠りをしまくったりしていて(職員室で有名だったそうです)、そういう発言をされたんだと思いますが、のちのちまで記憶に残るインパクトがありました。この場合の灰色はもちろんネガティブな意味を持つので、人生に失敗する、ダメな人生を歩む、ということ。反抗が過ぎたとはいえ、14歳が背負うにはかなり重い言葉ですね。他の生徒のように逆らわずに流れるままに(go with the flowと言います)していれば何の問題もなく、こんな言葉を言われることもなく過ごせたのだと思いますが、当時の私は孤立無縁になっても暴力は振るう教師には教える資格がないというスタンスで抵抗を示していました。授業から追放されたり、全校生徒の集会で一人だけ出席を拒否されたり、トラックを何十周も走り回されたり。内申書のことなど全く考えていませんでした。大人に対して強い疑問を持っていた時期でした。

「あんな大人になるのなら、死んだ方がマシ!!!!」極端な絶望感。うまく立ち回れない自分への苛立ち。ここには物事に隙間を見る余裕はなく、じっくりとグレーエリアで己を顧みてはいません。

 今でも暴力は断固反対ですが、百歩譲って考えれば、不安定な中学生を教えることは相当大変な仕事です。先生にしてみれば、スムーズに授業を進めたいのにいちいち反抗してくる生徒の対応ほど面倒なものはないかもと今14歳の娘を持って改めて思うところもあります。

「今、私の人生は灰色だろうか?いや、灰色ではない」50歳になっても未だ時折自問自答します。永遠に解けない呪いの言葉をかけられたかのように。

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 サンフランシスコにGray Areaというデジタルアートのシアター兼インスティチュートがあります。アメリカ国内外からのアーティストを招いていろんなイベントを行っており、私のサウンドエンジニアの友人が度々イベントでビデオの録画などを担当したりしていて何度も足を運びました。日本ではパフュームやサカナクションのヴィジュアル演出を手がけるライゾマティックスも二度公演をしていて、ELEVENPLAYとライゾマティックス+カイル・マクドナルドのDiscrete Figuresを観ました。ロボットやドローン、AIのテクノロジーとELEVENPLAYのダンサー達の動きがインタラクティブに交差する内容でデータ化されたダンサー達の動きがビジュアルになり、スクリーンに映し出される、芸術性もエンターテインメント性もある、素晴らしい内容でした。革のナチュラルな手触りを愛する私ですが、実はデジタルアートやエレクトロニックミュージックも大好きです。一見矛盾しているようですが、そうしたデジタルな音源や映像を用いて森羅万象を表現をするアーティストは実は多いと思います。それが意図的でなくとも私自身がその表現の中に人を含む自然の霊性の様なものを感じる瞬間というのは良くあり、その表現世界に没入する時に、自分の感覚が鋭敏になってより深く世界を理解できるような感じ、あるいは今まで見たことがなかった別の次元を瞬間的に垣間見れたような感じがする。まさにそのような現実とデジタル空間の間を指すのがこのシアター、Gray Areaの名の由来だと思います。AIに仕事を取られるイコール人類は不幸になる、のではなく、テクノロジーと人間の融和があればいい。人はもっと先にある何かを見れるかもしれない、と私はこの場所を通じて幸福な未来を想像させてもらえたような気がします。

 陳腐なようですが、10代、20代前半というのは人生における最初のグレーエリアなのかもしれません。時間に追われ突っ走らされる日々なのに心の中はぼんやりとしていて具体的に何をしていいかわからずそこはかとない恐れに包まれている。自己があるようなないような霧のように移ろいやすいアイデンティティー。このグレーエリアはいつでも、大人になっても、いろんな人生の時間においてやってくると思います。卒業、結婚、キャリア、子育て、転職などの何らかの区切り、更に女性であったら年齢による身体的な変化が大きいためにそのような時期を経験するでしょう。
 今私に見えるグレーはもうあの時のどんよりした絶望の灰色ではなく、濃淡があり、青みを帯びたり緑がかったり限りなく白に近いグレーだったりといろんな色味を持ったもの。そこにいるときに次の何かが見えてくることもある。グレーエリアにいる自分も人生の時間を生きている。そんな事も沢山の時間を過ごすうちにわかってきたような気がします。

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サンフランシスコで立ち寄った花屋さん


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