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故・山田花子氏命日に「自殺直前日記」を想って


(昨日の文章になります)

タイトルにある作品は何度も何度も読みました。
まさか自分が閉鎖病棟に入るとは思っていなかった頃から縋るようにページをめくりつづけました。

構成も考えずに想ったことをサクサクと書いていくので読みづらかったら申し訳ないです。

不謹慎ながら、何故20代半ばに差し掛かったあたりの女性たちは言葉に翻弄されたあと冬が終わって夏が来る前に亡くなるのだろう。

考えることもなかった。丁度いいからだ。

1年のなかでここのあたりの季節を乗り越えられればもう今年は生きられたようなものだ。

別冊宝島「自殺したい人々」(宝島社)によると、雨の日は飛び降り自殺する人があまりいないそうだ。

自分の死体が濡れるのは嫌だ。そもそも、憂鬱で死にたい気持ちを抱えているのに雨の日に重たい傘を持って高い建物を探す体力なんてない。

目星がついていても、10階建て以上の建物を階段でもエレベーターでも濡れた冷たいからだと、湿気で広がった頭髪を引きずって、建物の淵に行くことまで想定すると億劫だ。

冬は寒くて布団から起き上がれない。夏はバテ気味で死体が腐りやすいだろう、梅雨が来る前になんとかしなくては、焦燥感にも駆られると4月下旬からの1ヶ月間のほどよく涼しい気候はきもちがいい。

3月に屋上の最上階に行くとまだまだ風も強く足元がしっかりしない。そして、寒さでどんどん体が硬直していくうちにへたりこんで曇った空やビル群をどんよりと見回して未遂に終わる。

飛び降り自殺を前提に話すのは、山田花子氏がそうしたこともある。そして、女性の自殺は飛び降り自殺が多いから共感しやすい面でも飛び降り前提で書いてしまっている。

鶴見済「完全自殺マニュアル」(太田出版)によると、飛び降り自殺の死体の見た目はかなりむごいものだが、彼女は腰から落ちたためまるで生きているかのように綺麗だったと綴られていた。しかし、タイトルの作品にはそのような描写はなかった。

もう嫌だ。きっと自分の全てを責め続けた彼女は耐えられなかったであろう。

退院後すぐに命を投げたのだ。

精神科の入院は辛い。治らないものなら尚更。

20数年の自責と心労が、数週間や数ヶ月閉じ込められたところで治るわけがない。退院後というあたらしい人生に対して不安を抱くのだ。

彼女の退院前の日記には''ちゃんとしなくちゃ''とストイックに自分のお尻を叩くような退院後にやりたいことがまとめられている。

そして、その2週間後には「退院したらどーやって生きていったらいーのか。」(原文ママ)

と、一気に不安に苛まれているのだ。

入院させられると、退院後には家族にちゃんとした姿を見せなきゃ、自分がちゃんとしていないのは納得がいなかない。退院後=新しい人生のように捉えてしまうのがよく分かる。

彼女の自分自身に対する厳しさは両親の過干渉な部分が大きく影響してしまったのだろう。

もちろん、母親の文章を読むと愛情も感じるのだがどこか距離も感じてしまう。幼い頃からこんな本は読むなとか嗜好まで制限すらタイプの母親だったから恐らく、娘は一人の人間である前に自分の所有物的考えがあったのかもしれない。

愛玩子までいかなくても、過干渉ではありそうなのが見受けられた。

それはさておき、山田花子氏が亡くなった1日の日記は淡々としていてそれが妙に生々しかった。

自殺に対して人々は冷たい。

そして、亡くなった日の彼女の日記も母親の愚痴をくだけた口調で二行ほど書いたもので終わっている。

その日記に目を通したあとに母親が亡くなった日のことを書いたのかどうかも分からないけれど、読む前と読んだ後だとかなり死の受け止め方が変わってきそうだ。

それくらい、彼女は環境に抑圧されていて、それらによってはみ出たエネルギーを自責につかってしまったのだから。卑屈である。側から見れば、

なんで、あのようなセンスに溢れた魅力的な方が自分で若いうちに命を投げたのかと思われるくらいに完成された存在である。しかし、彼女はおそらくどんな漫画を描いてもどんな自分になっても納得いかず自分の欠点を責め続けて、日記にこぼしたであろう。

彼女は発見された時、身元がわからないまま警察署に引き取られて肉親に看取られないまま棺に入れられた。

この文を読んだ時、自殺するものは生きてから死ぬまでずっと孤独で寂しいものだと感じた。
しかし、その孤独を選ぶのも死者だと思う。
彼女は人間に備わる欲深さ、薄汚さを懸念していた。

一見ひねくれても捉えられそうだが、あまりにも人間に生まれるには真っ直ぐすぎたのだ。

何も鼻にかけない。

少しのセコいこともしない。

好きなものにはひたすら好きだとぶつかりつづけ、それ以外に絶望している。それ以外に残念なことに彼女自身も含まれているようだ。

私はこんなに純心な方が、サブカルチャーの登竜門的扱いを受けているのがどうしても納得がいかない。

山田花子という一人の少女が自分というファルスと格闘しながら生まれていったものが彼女の作品で、それらは彼女の聡明で視えすぎてしまうその大きな視野の崇高さをお裾分けしていただく感覚である。

32年前の今と平行すると彼女は今警察署に身元が引き取られているところだ。

でもなぜだか、5月24日11階の廊下に椅子を立ててその上からこの薄汚い世界を見下ろす彼女の長い髪がみえる。

母親は彼女を「異端」と称して、死については「これでよかったのかなァ」と述べた。

彼女は正常すぎたから異端扱いされたのかもしれない。

サブカルチャーの文化人の1人として語り継がれるのも彼女がたくさん考えながら生き抜いたことを遺すひとつの手ではあるけれど

私は彼女の人柄も死もセンスもおもしろがったりしない。

彼女の言うことには筋が通っているように感じられてものすごく共感できるから。

綺麗な人だと感じているから、好奇の目で汚したくない。

あと一時間で彼女は家族と対面する。

安らかな眠り顔で。

今は、歪みのない世界に居ますように。

合掌

2024.5.24


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