柳田國男的にいうと『昭和四十年~六十年史世相編』(2)
ラジオからテレビになった話を書くつもりだった。柳田國男的にいうと『昭和四十年~六十年史世相編』(1)11行|カワイ韓愈 / 카와이 한유|note
これの続き。
大昔の病院の入院、ベッドにテレビはついてなかった。1970年代はテレビは入院ベッドごとにはなかった。「病気を治す施設なんだからテレビなんか必要ない」という空気だろうと思う。そのフロアの娯楽室みたいなところに大型のテレビがあったと思う。必要な人は小型のを持ち込んでベッドの横に設置してた。私の曾祖母がそうだった。小型の丸っこいテレビ。
テレビを丸っこいと表現しても今の人らに伝わるかどうかわかんない。もうテレビが薄い板になってかなり経過する。テレビの上にあった正月の干支の置物、もう置く場所もない。
曾祖母は入退院を繰り返し、八十歳で死んだ。
曾祖母が病院で使っていたテレビが余る。誰かの部屋に行く。
数年後、そろそろ初代のテレビにもガタが来はじめる(まだ壊れてはいない)。買い替えとなる。そこでまたテレビが余る。誰かの部屋に行く。徐々にそれが繰り返され、一人に一台のテレビとなる。そうなる前は、テレビのチャンネル争いで怪我や死亡の記事が新聞にも掲載されていた。七十年代。
このサイクルが始まる前の一人一台はラジオだった。次回に続く。
ああいま思い出した、私も曾祖母の死後、小児病棟に入院している。大部屋だった。自分のベッドにテレビを置くようなガキは一人もいなかった。娯楽室みたいなところででかいテレビを観た。確か猿の軍団。あと、裏番組の人気が強くて入院時に観られなかった番組が『学校そば屋テレビ局』。小児病棟の一人(女の子)が「私どっちも観たくないな、『学校そば屋テレビ局』が観たかった」とボソっといった。私は心の中で「同志!」と叫んだ。