取材で「子どもたちにどう思われたいですか?」って問われて「意味わからんな」と感じた話
『子どもは無料のたこやき屋さん』をやっていると、ちょくちょく取材を受けることがあるんですよね。この前も取材があって、その中で質問をされました。
「子どもたちにどう思われたいですか?」
正直、「意味わからんな」って感じたんですよね。
考えたことなかった。
ただ、後から考えてみると、ちょっとだけわかってきました。
なぜ「意味わからん」と感じたか?
書き残しておこうと思います。
「どう思われたいか」というおこがましさ
「子どもたちにどう思われたいですか?」
「どう思われたい?」
「どう思われたい?」
この響きを傲慢と感じてるんだな。
そう気づきました。
そもそも、他人の感情は直接操作できなくて。
私ができるのは、Aさん、Bさん、Cさん、それぞれにどう接するかだけです。
もちろん、「嫌われたくない」「楽しいと思ってほしい」「好きになってほしい」そういった感覚はあると思います。あるんですが、それを直接口にするのは野暮じゃないですか。
恋人に「好きだよ」と言っても「好きだと思ってくれ」とは言えないわけです。言えないですよね。おこがましい~~。言ったところでそうなってくれるわけでもない。
じゃあ、好きになってもらうには?
その誠意を行動で示す以外にありますか?
「子どもたちにどう思われたいか」という問いに対して、たとえ「好きだと思ってほしい」と考えていたとしても、私はすでに自分でやれることはやり終わってるんでね。それを相手が「どう受け止めて、どう感じるか」なんてことは知ったこっちゃないんですよ。知ったこっちゃない。すでに私の手を離れているので。
変な話になるかもですが、そんなんどうでもいいんですよ。
ちょっと伝わりにくいかもしれないんですが。相手への思いがあって、それを私が形にする。その結果、相手がどう判断するかなんて私には関与しえないわけです。ただ、好意的に感じてくれる子は次も来るし、嫌だと感じた子はもう来ないです。それ以上は望めません。
そこに拘るには私は大人になりすぎました。
「子どもたちにどう思われたいですか?」
私の口から出てくるこの質問への答えはどうあがいても傲慢さを含んでしまう。
祈りの正体を考えることに近い。
ただ、たこやきを焼いて、子どもたちと日々過ごして、その中で私なりに誠実に接することはしていて。そこまでなんです。私にできることは。
その先は覗けない。だから答えられないのかな、と。
記者の方が変な質問したとは思いません。まっとうな質問だと思います。ただ、私がこの質問には答えられないんだなって思いました。
来たけりゃ来るし、来たくなけりゃ来ない。
でも、誰か来るかもしれないので、今日も今日とてたこやきを焼く。
両の手を合わせる代わりに。