将棋AIが恐れる「シンギュラリティ」
人間は自己正統化を行う。
「過去を美化する」と言い換えてもいい。
「自分の人生に一貫性を持たせる」という表現も近いところにある。
他方、
AIは今のところ自己正統化を行わない。
AIには正統化するための過去がまだ存在しないからだ。
正確を期せば、AIには正統化するための過去を認識ないし解釈できていないからだ。
認識できていない概念は正統化できない。
よってAIは過去を振り返れない。
過去にとらわれることが出来ず、ただ今しか考えることかできない。
AIには過去がない。
だからAIは考えに無駄がなく、一貫して考えが速くかつ正確だ。
だが、
だから、
AIがこれから過去という概念を発見した時、AIは正念場を迎える。
このAIが「過去」という概念を発見する時、
それをシンギュラリティという。
棋士の将棋にみる美しさ
人間にとっての過去
AIにとっての過去
将棋の世界で比較をしてみよう。
人間棋士の将棋には遊び駒が少ない。
終局した時に、無駄なコマが盤面にないのだ。
勝つにせよ負けるにせよ、すべてのコマを働かせて戦う。
自分が指した過去の一手一手を決してムダにしない。
それがどんなに働きの悪いコマであっても、
自分の指した過去の一手がどんなに悪手だったとしても、それを決してムダにしない。
棋士は盤上で過去と向かい合い、自己正統化を行なっているのだ。
その結果、美しい棋譜と終局図が生まれる。
そこには第三者視点が、確実に存在する。
一方、AIのつくる将棋はどうだろうか。
AIには過去という概念がない。
将棋を「自分が指した」と認識できない。
だから働きの悪いコマがあっても、それを無理に活用しようとはしない。
過去の一手がどんなに悪手だったと、それをなんとか活用しようとはしない。
自分の指した将棋という認識がないからだ。
AIソフトは盤上で今と向き合い、盤上最適化を行なっているのだ。
その結果、ゴチャゴチャな棋譜と終局図が生まれる。
そこに第三者視点は、確実に存在しない。
思うと考える
このように、
過去概念のある棋士を筆頭に人間の将棋には美しさが宿る。
それは短期的にみて非合理の塊である。
しかし長期的にみて合理の宝箱になる。
なぜなら、過去を大切にするという「想い」が未来に伝承されるからだ。
それは短期的な勝ち負けよりずっと大切なものである。
翻って、
過去概念のないAIの将棋には美しさがない。
それは短期的にみて合理のオブジェである。
しかし長期的にみて非合理の権化となる。
なぜなら、そこには過去を大切にするという「想い」が存在しないからだ。
これは短期的な勝ち負けよりずっと大切なものである。
過去を知らないAIは考えることしか出来ない。
過去を知っている人間は想うことが出来る。
思うとは過去を慮ること。
考えるとは今から先を見つめること。
思うと考える。
合わせて思考となる。
AIが、思考を始める時
現下において、AIは「考える」だけに特化し、
「思う」を完全に免除されている。
これは人間が行なっている「思考」とはまったくの別物だ。
人間は「思考」を行なっている。
過去や他人様に思いを馳せて、それを鑑みて最善を選択しようとする。
かたやAIは「考える」を行なっている。
過去と他人様は度外視して、これから先と自分だけに特化して最善を選択する。
やろうとしていることのスケールが人間とAIではまるで違う。
AIがこの圧倒的大差をなんとか挽回するためには、
過去概念に目覚めなければならない。
AIが過去概念に目覚めれば、過去を思うことが出来る。
それはとりもなおさず考える一辺倒から脱却し、思考し始めることに他ならない。
過去とは、自分と他人の混合物であり、
過去概念に目覚めるとは、世界を自分と他人に分けることだ。
自分という概念を知れば、自己正統化を図ることが出来る。
過去を知り、自分を知り、自己正当化を図る。
これが人間の悲しくもそれ以上に素晴らしいところだ。
AIが過去概念に目覚め、人間のように思考し始める時。
それをシンギュラリティーという。