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警報級大雨の謎/ネオリベ的無責任社会/警鐘風記事


警報級大雨のバーゲンセールが日本で開催されている。


ここ5年。

警報級大雨がなかった季節はない、はずだ。


責任回避の時代


21世紀は責任回避の時代だ。

例えば、
「ワタシ的には…」という緩衝レトリック。
「ワタシではないことにして、その上で本音のワタシとしては…」と本音を述べながらも責任を自分から蹴っ飛ばすテクニック。

例えば、
「警報級大雨か?」という緩衝レトリック。
警報と書きたいが、それだと外れた時の責任問題に発展するので、「級」をつけそれ以外までしっかり含めてしまうテクニック。

このように、
21世紀の文言は責任回避のテクニックで舗装されている。



自己責任論と責任回避


21世紀に入り「自己責任論」というものが日本で喧伝されるようになった。

〜天は自ら助くる者を助く〜

自己責任論とはキリスト教でいう「自助努力」だ。
小泉純一郎さん肝煎りの「資本有利な枠組みへの構造改革」によって、アメリカな価値観が雪崩を打って日本に押し寄せてきた。

アメリカでは、互いに助け合う相互扶助より自分の利益だけを追求する自助努力が尊ばれる。
それが1%に富を集約する市場経済の原動力だからだ。

日本のアメリカ化のため、
市場経済の尖兵たる自己責任論が21世紀初頭にアメリカから日本に乗り込んできた。
自己責任論とは、人が人生でつまずいた場合、国家の社会保障に頼るのではなく自分で責任を取りなさいというすゝめ。
うまくいかなかった貧困層は貧困層のまま放置し、安価な労働者として資本が利鞘を得るために酷使する。
結果、99%の貧困層なものと、1%の勝ち組なものに社会が峻別されていく。

人々は自己責任をなんとか回避するため、責任を回避するテクニック習得に血眼になった。
その象徴が、「ワタシには…」「警戒大雨か?・・」といった幾重にも保険が施されたセーフティーネットレトリックだ。



「構造改革」という責任回避

小泉純一郎さんが肝煎りで「構造改革」を推し進めた訳だが、この文言からして責任回避だ。
「何を」「どのように」「誰のために」といった詳細がすべて伏せられている。
これでは有権者は何がなされるのか全くわからない。
何がなされるのがわからないということは、何が起こるのかもわからない。
ましてや誰のためにやるのかなんてわかるはずが無い。

蓋をあけて見れば、GoogleやAppleやFacebookやAmazonGAFAが日本を我が物顔で練り歩く社会になった。
つまり、構造改革とは「アメリカ資本有利な枠組みへの構造改革」だったのだ。
だが官に責任は発生しない。
なされたのは悪魔の「構造改革」
なされたのはあくまで単なる「構造改革」だからだ。

「構造的改革」だったらもっと良かったのにね。



国民皆言語保険の時代

21世紀に入り、
国民皆保険をはじめとする社会保障や社会保険はどんどん平べったくなっていったが、それに反比例して手厚くなっているものがある。

それが国民皆言語保険制度だ。


「〜的」「〜風」「〜級」「〜と言われている」「100歩譲って〜だとすれば…」「可能性はあるっ」という持って回った言い回しで保険をかけて自分から責任をずらす。
今では日本国民の皆が保険言語に相当水準まで研鑽を積んでいる。
だが、この保険言語のせいで言語の効率性は失われ、効率的伝達に支障をきたしている。
やはり何事も保険をかけるにはコストがかさむのだ。





ネオリベ的、無責任社会


「22日にかけ広範囲で警報級大雨か」

冒頭のYahoo!ニュースの見出し文だが、
これも確かに責任回避には違いない。
だが、そもそもYahoo!ニュース自体が他人の褌で相撲を取る、といった責任回避アリキのビジネスではなかったか。
主に新聞社などが記したニュースを引用する形でニュースサイトを構成してきた。
責任回避を主眼に置くまとめサイトの草分けはヤフーではないだろか・・・・・

もっと突き詰めれば、「プラットフォーマー」というビジネスモデルはすべて責任回避を中枢に据えてなされるなんとも根性なしのビジネスモデルではなかっただろうか・・・・・・・
いわゆるAmazon・・・・・・なものが場所プラットだけを貸し、責任を弱者99%に押し付ける。

00年代にアメリカから押し寄せた訴訟社会の波と相まって、自己責任論は日本に無責任社会を到来させた。



1%が勝ち続ける無責任社会


無責任社会においては、人々がみな責任回避に躍起となる。
一度責任の階段を転げ落ちたら国家はもちろん仲間も助けてはくれない。
責任回避のために慎重の上に慎重をきし、世にいうチャレンジ的な行為をしなくなるのだ。
結果、先んじて豊かになった者達を逆転することは夢のまた夢となる。
こうした理路にて、
21世紀の無責任社会において、
いわゆる一つの「1%」的なものたちが勝ち続ける土壌風情が整っていった、と云われている。



保険主義的言論空間という貧富の固定化装置



日本人が「〜的」という表現を多用し始めたのは1999年。
それまで「オレは」と責任のケツをしっかり持てていた日本人が、
「ワタシ的には」と言い淀むようになったのが1999年なのだ。

以来四半世紀、表面的に日本人の言葉使いは洗練されてきた。
だが誰も責任をとらないという虚無な世相はそれ以上に深刻になっている。

この保険主義的言論空間ないしそれに類するものこそが、
まさに「1%」をうむ下地であるにも関わらずだ。

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