「効率化半径」_コロナアフターカーストの絶対条件
効率化半径という概念で世界を変えよう。
倫理観という言葉があるが、この言語概念のままでは数値可視化ができない。
倫理は可視化できない。
何故だろうか?
倫理を数値にする努力を怠ってきたからだ。
裏返せば、倫理を数値にすれば可視化できる。
そこで「効率化半径」だ。
効率化半径
「半径何メートルを豊かに出来ているか?」
これが効率化半径だ。
例えば、効率化半径が50cmのAさん。
Aさんは自分の中心から50センチをいつも豊かにしている。
Aさんは自分の中心から50センチをいつも綺麗にしている。
Aさんは自分の中心から50センチを幸せにしている。
Aは50センチより外を不幸にしやがる。
つまり、Aは自分だけ野郎だ。
例えば、効率化半径が5メートルのBさん。
Bさんは自分の中心から5メートルをいつも豊かにしている。
Bさんは自分の中心から5メートルをいつも綺麗にしている。
Bさんは自分の中心から5メートルをいつも幸せにしている。
Bは5メートルより外を不幸にしやがる。
つまり、Bは家族だけ野郎だ。
例えば、効率化半径が500kmのCさん。
Cさんは自分の中心から500kmをいつも豊かにしている。
Cさんは自分の中心から500kmをいつも綺麗にしている。
Cさんは自分の中心から500kmをいつも幸せにしている。
Cは500kmより外を不幸にしやがる。
つまり、Cは国粋野郎だ。
自分だけ野郎、家族だけ野郎、国粋野郎…
このように、効率化している半径がわかればその人物が観える。
倫理観と適切な効率化半径
「半径何メートルを豊かに出来ているか?」
効率化半径は倫理観に近い。
一般的に次のようになるはずだ。
自分だけのために生きている人間は倫理観が低い。
家族だけのために生きている人間も倫理観が相当に低い。
なぜならば、共同体を無視して家族は存続できないからだ。
国家のためにも生きられる人間は倫理観が相応に高い。
なぜならば、国家という容器があるからこそ国民国家体制が機能して我々は秩序ある暮らしを享受できているからだ。
だが、世界のために生きている人間まで突き抜けるとこれまた倫理観が低くなる。
なぜならば、現下世界は国家という容器で明確に区切られており、それを無視した豊かさの追求は多くの人々を貧しくしてしまうからだ。
すなわち、
効率化半径が小さいのも問題だが大きすぎるのもまた問題となる。
つまり、
その時代時代の制度や文化によって最適な効率化半径は変わってくる。
変えられない倫理観と変えられる効率化半径
倫理観という言葉は変わらない。
適切な倫理は移ろい変わっていくのに、倫理観という言葉は常に一様で変われない。
倫理観という言葉は数値にならないからだ。
倫理観という言葉では倫理を可視化できないがゆえに、人々にとって適切な倫理水準を見出せず、いつまで経っても合意形成を得られない。
一方で、
効率化半径は柔軟に変えられる。
数字で表示されるからだ。
したがって、
効率化半径という言葉ならば数字化できるため、適切な倫理水準を見出せて、合意形成を得ることが可能になる。
実のところ、倫理観と効率化半径は同じ概念だ。
だが、「数値可視化できない倫理観」と「数値可視化できる効率化半径」では性能が異なる。
目に見えない倫理観という言語概念を使う限りは、時代の中の重心すなわち常識を明確に示せない。
目に見える効率化半径という言語概念を使えば、時代の中の重心すなわち常識を明確に示せる。
時代とともに変わっていく倫理を、倫理観という言葉で不変にしてしまうから問題が生じる。
変動する倫理は変動させられる言語概念で表すべきなのだ。
そこで「効率化半径」という言語概念にお鉢が回る。
効率化半径による共同体の秩序形成
人類社会の問題点は倫理観が見えなかったというところにある。
「倫理的に生きろ」と云うが倫理は見えない。
倫理は共同体ごとに異なり、時代によってもうつろっていく。
老人には老人の倫理があり、若者には若者の倫理がある。
それぞれ異なるものだ。
倫理のズレが少なく、ズレを許容して同じ共同体で生きられる人物。
倫理のズレが大きすぎ、ズレを許容して同じ共同体で生きられない人物。
まず、この峻別を行うべきなのだ。
倫理が相応に近い人間と一緒に集住することで、
効率化できる半径が似ている人々と集住することで、共同体も構成員もともに豊かになれる。
似たもの同士とは、効率化半径が似ているもの同士なのだ。
どの範囲の豊かさを守ろうとしているか?
これが一致していなければ、話しが噛み合わない。
「豊かになりたい」「幸せになりたい」と言っても、その範囲が異なれば方法論もまた全く異なってくる。
効率化半径が近い人同士が集住することで共同体の秩序は保たれ、その共同体は豊かになっていく。
倫理の可視化
太古、
文字が人類の思考を可視化させた。
いままさに、筆者の思いと考えが読者の目に入っているではないか。
文字によって、筆者の思考が読者に可視化されているのだ。
つまり、文字が人類の思考を可視化させた。
そして現代、
情報デジタル化が人類の倫理を可視化させる。
クラウドに溢れる膨大な人間情報を、卓抜した処理能力を持ったAIが解析し、人間の倫理は数値化することが可能となっている。
この人物はどれだけの範囲を豊かにしているのか?
これを数値にして可視化することが可能となった。
コロナ事変_倫理観の炙り出し
いわゆるコロナ禍とは倫理観を炙り出す儀式だった。
非常事態においてこそ、人間の倫理観は明け透けになるからだ。
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