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失われた記念碑/タワマン/静かなるカタストロフ


タワーマンションといえば華やかな印象がある。
「街のランドマーク」とあたかもコピペのように形容されてチヤホヤされがちだ。
だが実際のところ、タワーマンションとは「衰退の中での合理化」としてのランドマーク記念碑ではないだろうか。

本記事ではタワーマンションの背景を紐解き、タワマンの「衰退の中での合理化」という側面を抉っていく。



工業の空洞化

タワーマンションができる一つの要因が「工業の空洞化」だ。
典型事例が兵庫県のJR尼崎界隈。
かつて尼崎は工業の街だった。
工場汚染の街といえば尼崎。
何かあれば工場群映像が用いられ、黒煙を靡かせる尼崎として悪きイメージのランドマークだった。

だが今は昔。

もはや尼崎は工場汚染の街ではない。
JR尼崎駅前には洗練された中高層ビルが立ち並び、大阪へ新快速一駅5分の好立地を生かし「快適に住める」街へと大躍進を遂げている。

この大躍進の立役者が「工業の空洞化」だ。



JR尼崎/工場空き地のリサイクル

タワーマンションクラスの建物となると、そう簡単に立地を確保することはできない。
何かしらの「大きな衝撃的イベント」が起こらなければタワーマンションへの建て替えは出来なかった。
日本では、その大きな衝撃的イベントが平和裏に行われたものだから見過ごされがちだ。

「工業の空洞化」

これによって、日本の工業地帯から工場が激減しタワーマンションの潜在的立地が確保されたのだ。
1985年の「プラザ合意」以降、日本は歴史的な円高に見舞われ、国内製造業は活路を求めて海外へとこぞって製造拠点を移し始めた。
結果1990年代に入ると日本国内の工場数は激減し、工業の空洞化が明確になったのだ。
かつて工業地帯の代名詞となっていた大阪の尼崎(厳密には兵庫県)からも、当然工場が姿を消していき、駅前の一等地にすら巨大な空き地が生まれた。
「大きな衝撃的イベント」がなければ出来ないはずの巨大な空き地が生じたのだ。
この駅前一等地の巨大な空き地を再開発することで、JR尼崎駅前に高層マンションが林立し始めた。

こうした順路を経て、J R尼崎界隈におけるタワーマンション建設は可能になったのだ。



ラブホ、コインP、カラオケボックス…

タワーマンションができる2番目の要因が「バブル崩壊」だ。

バブル崩壊の徒花あだばなといえば、まずラブホテル、次にコインパーキング、そしてカラオケボックスだ。
1991年ごろから全国の街々に急激に増えていったのがこの平成「三種の神器」。
バブル崩壊によって、土地の価格がこぞって原価割れを起こした。
この土地価格回復を待つ間の弥縫策として、資産家は土地を「ラブホテル」「コインパーキング」「カラオケボックス」で運用し始めたのだ。
だが、待てど暮らせど土地価格はバブル全盛期には戻らない。
実際問題、30年以上を経った今も戻っていない場所が極めて多い。
その証左に、現代日本においてもラブホテル、コインパーキング、カラオケボックスが一等地と呼ばれる場所に林立しているではないか。

このように、バブルの徒花あだばなとしてラブホテル、コインパーキング、カラオケボックスは誕生した。
そして、バブルの徒花、その総仕上げとしてタワーマンションが登場する。



「バブルの大徒花」としてのタワマン

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