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奪われた30年/失われた30年からの叛逆



落とされたならば落とし返せばよい。
奪われたならば奪い返せばよい。
だが、失われたものを失い返すことはできない。
だから「失われた30年」という表現は大問題なのだ。



賽は落とされた


「原爆を落とされた」
「失われた30年」
・・・
といった具合で日本語は言語表現の際に状況を曖昧にしがちだ。
いったい何が主語なのかがわからない。
誰によって被害を被ったのかがわからない。
自分たちにだけ一方的に責任があるかのような表現である。
確かに「引き受けの法則」などで、自分の中に問題点があると仮定して物事を見つめるのはなかなかに有力な方法論だということが立証されている。
だが、日本人はあまりに被害を引き受けすぎているのではないだろうか。
引き受けの法則ではなく、引き受けの原則なのではと穿ってしまうほどに自分たちばかりが被害をこうむっている。

例えば「原爆を落とされた」という表現。
「原爆を落とした」と表現することも可能だ。
世の中は多様なものの見方で出来ている。
オバマがいったように「判断は未来の歴史家に委ねる」でいいではないか。
我々はできるだけ多様なものの見方を未来に残すことこそが大切なのだ。
であるにも関わらず、
日本では「原爆を落とされた」一辺倒で広島の惨劇を表現している。
これでは未来の歴史家が判断を下す際にあまりに手応えがなさすぎる。
「日本はどこかに原爆を落とされたんだな」と白い鼻で笑われて終わりだ。
大量虐殺者たちの名は永遠に不問となる。
「原爆を落とされた」と解釈する人が日本にいてもそれは一向にかまわない。
だが、そう思わない人は別の表現を用いて広島の惨劇を言語化するべきだ。
俗にいう「自分の頭で思考して」広島の惨劇を未来に伝えるのだ。
そうすることで、未来の歴史家は判断のための有用な情報を得ることとなる。


そして、
「原爆を落とされた」以上に情けない表現がある。

それが「失われた30年」だ。







30年は奪われた

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