シン・ゴジラにみる新自由主義の頽廃と限界、そして
映画シン・ゴジラから長らく「シン」ブームが続いている。
新、真、神、信、芯、死ん‥
「シン」は様々な含みを持つメタファであるが、その中でも「新」というど真ん中ストレートを中心に据えて考察してみよう。
新自由主義というスサマジキ穢れ
2000年代に入って新自由優先主義という判断基準が猛威を振るっている。
ああ、難しそうだ。
いまそう思った人も大丈夫。
新自由優先主義とは「他の何よりも自由を優先する判断基準」なのだ。
今時、
アメリカ西部開拓時代のような、そんな自分勝手なやつおるか?
ここではこうした質問が想定される。
端的に答えよう。
今時、
そんな自分勝手なやつばっかなんじゃ。
自由優先主義の砂鉄 そして千載一遇‥
新自由優先主義の前にあったのが自由優先主義。
「国家があまり社会に介入せず、人々の自由を優先すれば、世の中や経済はどんどん良くなっていきますよ」
というトンデモ論、尊重されるべき思想。
人々の自由意志に任せたら「万人の万人に対する闘争になる」と教科書に書いてあったが、まあ先人たちは騙されたふりをしてやってみたんじゃないかな。
そうしたら1900年初頭から1960年代までグングンと経済発展したのだ。
だが、1970年代に自由優先主義と貨幣経済のタッグは暗礁に乗り上げる。
オイルショックだ。
オイルショックにより、海外から安く買ってきてぼったくり価格で海外に転売するというアメリカモデルが崩れた途端、新自由優先主義と貨幣経済タッグは窮地に追い込まれた。
ここで世界は転機と千載一遇の大チャンスを迎える。
身勝手を優先する判断基準はやはり傍迷惑で良くないんじゃないか、と反省の絶好の機会が訪れていたのだ。
羹に懲りて自由を叫ぶ
だが我々はその大チャンスを活かせなかった…
現実は次のようになってもうた…
ある方法論でうまくいかなかったら、それ以外の方法論を探るのが本筋だ。
だがここで、なぜか我々はある方法論を深化させてしまった。
自由優先でうまくいかなかったのは、自由優先度がまだまだ足らないからだ。
国家を経済から排除しようとして失敗したのは、国家の排除度合いが足らないからだ。
湾岸国家を締め付け逆鱗に触れてオイルショックが起こったのは、湾岸国家への締め付けが足らなかったからだ。
などと身勝手に総括し、
自由すなわち身勝手を再拡大する路線を強化した。
そして新自由優先主義へ
/
/
「自由な経済でうまくいかなかったのは、自由が足らなかったからだ」
地獄への道は自由で舗装されている、と言ったものだが、我々はこの判断で確実に地獄へと歩み始めたのだ。
「自由を最優先させれば、世の中はどんどん良くなっていく」
新自由優先主義の判断基準とその先にある思想は、経済をさらに野生化させた。
相手がどうなろうが知ったことではない。
世間がどうなろうが自分が儲けられればいい。
そうしたDQN、知的風来坊が集まれば、競争が活況化して世の中はどんどん洗練されていく、、、
という理路で新自由優先主義と貨幣経済は2000年代を席巻する。
結果、現下において当然のように1%に富が集中し、世の中は退廃している。
新自由主義へのやるせなさ→「シン」ブーム
新自由優先主義の厄介なところは、これが人間の煩悩に確実に存在するということ。
自分の自由や身勝手。
それを「そのままでいいですよ」と言ってくれるのだから、楽ちんでいい。
だが、その先にある帰趨もなんとなく以上の精度でわかる。
明確なる破綻だ。
それがわかっていながら、先人たちはやってくれた。
我々が生まれる前の、我々が手出しできない時代に、
「もっと自由を最優先して世の中を変革していきましょう」
というトンデモない、すさまじき決定がなされ、彼らではなく、我々がその皺寄せを食っている。
新自由主義というシンじられない決定と刷り込みのせいで、我々は少なくとも30年を失った。
そのやるせなさと憤懣が、「新」という文字を使うことを躊躇わせる。
羹に懲りて膾ぐらい吹かなければやっていられない。
「新」ではなく「シン」を使うことで、
新自由優先主義へのささやかな抵抗運動を我々は行っているのだ