木枯らしに抱かれて/Ms.OOJA/巨人の矜持
呑舟の魚、見つけたりだ!
「木枯らしに抱かれて」は小泉今日子さんの20枚目のシングル。
1986年11月19日に発売され映画主題歌として人気を博した。
それからおよそ40年。
遂に、木枯らしに抱かれてが完成した。
原作へのリスペクト、?
Ms.OOJA 「木枯らしに抱かれて」
これほどまでに原作原曲をリスペクトした作品はない。
原作をリスペクトするというと、原作の雰囲気を再現するものだと思われがちだ。
だが果たしてそれはどうだろうか。
原曲の雰囲気や世界観を忠実に堅持することだけが、その作品への敬慕であろうか。
それは断じて違う。
時代の中で埋もれかけている優れた原作の数々。
これを後世に伝えていくのが、オマージュやカバーの役割だ。
だから、伝わらなければ意味が希薄である。
伝えるためにはその時代、その時代の価値観にそぐう内容に改変しなければならない。
そのためには何をすれば良いか。
より良いものに仕上げることだ。
原作を、
凌駕すること。
原作を凌駕することが、原作のリスペクトなのだ。
巨人の肩を超えて!
文明というものは、先達たちが見つけた知恵を用いて、より高みにある叡智を目指すプロジェクトだ。
だから知恵の独り占めは決して許されない。
それと同様に、音楽も、先達がつくってきた作品をもじって、より素晴らしい作品を目指さなければならないのだ。
ドボルザークがいたからこそ、小室哲哉の音楽が生まれ、小室哲哉の音楽があるからこそ現下日本のミュージックシーンがある。
だが、昨今の訴訟社会化によって、特に音楽分野で本歌取りが難しくなっている。
訴訟によって共有知の独り占めが許される世の中になっているのだ。
パクリパクられて共有財たる音楽は進歩していくのに、パクリパクられを取り締まる風潮が強く音楽業界は停滞が顕著だ。
こうした背景があり、日本ではオリジナル作品が減ってカバー作品が増加している。
このカバー作品でも、オリジナルの世界観を守れという呪縛が強く、残念ながら日本の音楽にここ10年で進歩は乏しい。
ましてや進化など望む術もない。
だが、それでも、
オリジナルを出しづらくても、
カバーで耐え難きを耐えても、
なんとかして日本の音楽を進歩、そして進化させなければならない。
Ms.OOJAがこの偉業をやってのけた!
価値観を揺さぶれ!!
OOJAの「木枯らしに抱かれて」は「圧巻」だ。
申し訳ないが、小泉今日子さんの原曲を圧倒凌駕している。
世界観がまるで異なる。
次元と位相が合わせて4つか5つは違う。
よく、「原作の世界観を守って…」という。
だが、そもそも、
「原作の世界観」というものが私には理解できないのだ。
それはなぜかというと、
世界観なんぞは十人十色で人それぞれだからだ。
各々で感じ方が違う世界観を守ることなどは出来ない。
「原作の世界観を守って…」という言い回しには世界観というものが唯一無二のものだという刷り込みがある。
この刷り込みは一神教由来のものであり、甚だ危険だと感じる。
気づいたら、閑話休題。
世界観は十人十色。
ならば、音楽はこれをどうすれば良いのか。
音楽ができることは、世界観を揺さぶることだ。
音楽がしなければならないことは、世界観を揺さぶることだ。
唯一無二の価値観などないことを、
固定された価値観などないことを、
ふたたび人々に知らしめることだ。
そのために、人々の中にある価値観を揺さぶる。
これが音楽に託された使命ではないだろうか。
こうだったらいいのに、を歌うOOJA
OOJAさんの歌は素晴らしい。
昨晩初めて拝聴したのだが、これは傑物だ。
確固たる意思がどの曲にも通底している。
OOJAの確固たる意思とは、「こう歌った方が良い」を体現していることだ。
カバー曲であっても原典に物怖じすることなく、「こう歌った方が良い」を貫いている。
ベランダで聞いていたワタシは、
「そう!そこ!!!変だと思ってた!!!!!」
と心の膝をバンバンバンバンバンバン叩いていた。
例え過去の名曲だったとしても、
「こうした方がいい」があればアレンジを加えてより良きものを、より高きところを目指す。
それこそが音楽へのリスペクトだ。
確かにその曲だけをリスペクトしたのであれば、その曲を前任者同様に歌えばいいだろう。
だがそれでは音楽世界に発展はない。
音楽世界に発展をもたらさない停滞、それは音楽に対するディスリスペクトだ。
特定曲をリスペクトして、音楽をディスリスペクトする。
それは視野狭窄というもの。
音楽全体をリスペクトしているのであれば、
カバー曲で音楽を発展させたいのであれば、
「こうした方がいい」部分にアレンジを加える。
これだ!
ワタシが欲しかったのはこれだった!!
という価値観をOOJAに教えてもらったのだ。
「そう!そこ!!!変だと思ってた!!!!!」
をベランダのおっさんにこれでもかと教えてくれるOOJAは偉大である。
シャカシャカしないアルフィー
これは是非とも聞くべきだ。
…
……
……むっちゃ、ベッピンさんやで……
昭和を生きた人であれば、一聴して「アルフィー?」と思ったことだろう。
さすがにお目が高い。
木枯らしに抱かれては、アルフィーの中の人が作詞作曲している。
アルフィーといえば、最近の若い人には「銀河鉄道999の主題歌作った人々」と言ったらギリギリ伝わるか伝わらないかと言ったところ。
アルフィーは1980年代に一世を風靡しかけたユニットだったが、なんだか「シャカシャカ」していて風靡できなかった。
だが、驚くことなかれ。
OOJA版の「木枯らしに抱かれて」は、シャカシャカしているというアルフィー音楽の問題点を完全に克服している。
アルフィーの醍醐味である近未来的な雰囲気を残しながら、シャカシャカ感を払拭した流麗な作品に仕上がっている。
これこそ「巨人の肩にのる」だ。
良いところを残して伝え、問題点は克服して伝える。
こうして音楽は少しづつ、だが確実に進歩していくのだ。
「原点の世界観をぶち壊すな」と知恵の独り占めを幇助している人は、少し考えてもらいたい。
「そう!そこ!!!変だと思ってた!!!!!」
を発見できない世界は寂しいんちゃうかな?
そう!そこ!!!変だと思ってた!!!!
とはいえ、
「そう!そこ!!!変だと思ってた!!!!」
これは完全に後付けの解釈だ。
筆者だって、
OOJAさんの歌を聞くまでは「小泉今日子の木枯らしに抱かれてが昭和でいいよね」といった風情だった。
だがイントロを聞いた瞬間に、海馬が「ピキーン!」とキタコレ!!
「そっか!そこが変だったのか!!!!」
と変だったことに気づかせてもらえた。
これはOOJAさんが原典に挑戦したからこそワタシが新たな旋律の可能性に気づけたのだ。
もし仮に、誰もが「原作の雰囲気を忠実に…」と無難にやっていたら、
誰も「そう!そこ!!変だと思ってた!!!!」、
と気づけない。
そんな世界に発見はないし、ましてや発展はない。
そしてとうぜん活気はない。
あるのは現状維持以下で永遠に続く明日だけだ。
さしづめ失われた永遠である。
我々はずっと、現状維持以下で永遠に続く明日を30年間もやっておったのだ。
それを30年目でやっと気づかせてもらえた。
今までのはなんやってん!
もっと気持ちをありていに言語化しよう。
「今までのはなんやってん!」
OOJAさんの曲が、昨晩からワタシの秘蔵ヘッドホンの中でヘビーローテしているが、
脳裏をよぎる感慨はただただ、
「今までのはなんやってん!!!!」だ。
どのカバー曲も、新たな息吹と価値観を原典に吹き込んでいる。
カバー曲というのは、かくあるべき、
を艶のある歌声で教えてもらっている真っ最中だ。
いやカバー曲だけではない。
人間とは、かくあるべき、
生きるとは、かくあるべき、
をOOJAさんに教わっている最中なのだ。
おかげで電車に2つ乗り遅れても、へこたれてはいけない。
朝から33℃だからといって、靴下を脱いだっていいじゃないか。
あ、、
下ばっか見とったら、3つ目の電車が行ってもた。
準特急の停車駅、わかりにくいんじゃ。
みんな、9時から通勤しよう!!
さて本題、
世界観のスクラップアンドビルド、それをゲシュタルト崩壊と言ったりもする。
ちなみに、
世の中を創ろうとする気宇壮大な意思を、古い日本語で矜持と言ったりもする。
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