須陀洹(シュダオン):「身見、疑惑、戒取」の三結を断じ、須陀洹へ向かう 聖者の第一段階「須陀洹(ジュダオン)」への道はどのようなものでしょうか。この目標に到達するには、そのイメージが具体的にできていることが不可欠です。どの山に登りたいか、目標を決めてこそ、登頂できます。
さて、釈尊入滅後、しばらくすると「身見、疑惑、戒取」の本来の意味合いがだんだん分からなくなり、部派仏教・アビダルマ時代に様々の解釈が行われますが、とても難解なものとなってしまいます。これは現代でもそのまま引き続いています。
田坂広志氏は『死は存在しない』の中で、興味深い指摘をされいます。世界の宗教に対し、「その新たな理解と解釈を、「誰にでも分かる易しい言葉」で語って頂きたい。なぜなら、古い経典は、素晴らしい真理が語られているにもかかわらず、言葉が固く、難解であるため、多くの人を「宗教」から遠ざけてしまっているからである。」と。下記を参照ください。
宗教者の方々には、それぞれの教義原点となる経典や聖典を、新たな目で「読み解いて頂きたい。「読み直して頂きたい」。(略) なぜなら、『般若心経』の「空即是色」、『旧約聖書』の「初めに、栄光あれ」、仏教唯識思想の「阿頼耶識」、インド哲学の「アーカシャ」などを例に、本書で何度も述べてきたように、「古代の宗教的叡智」は「現代の科学的知性」が発見する「世界の真実」を、見事なほど、遥か以前に、直感的に把握していたからである。 そして、もし、経典や聖典の「読み解き」や「読み直し」をされたならば、その新たな理解と解釈を、「誰にでも分かる易しい言葉」で語って頂きたい。 なぜなら、古い経典は、素晴らしい真理が語られているにもかかわらず、言葉が固く、難解であるため、多くの人を「宗教」から遠ざけてしまっているからである。 そして、それぞれの宗教が営む「儀式」についても、現代の人々の心境に合わせた「簡素化」を試みて頂きたい。「過度に様式化された儀式」もまた、人々を「宗教]から遠ざけてしまっているからである。 いずれ、最も深い真理は「簡素な言葉」で語られるものであり、最も大切な祈りもまた、「簡素な技法」で行われるものだからである。
光文社 『死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説』 田坂広志著 2022年 これは、阿含経に対して書かれた文言ではないが、阿含経解釈にも該当すると受け取るべきでしょう。「誰にでもわかる易しい言葉」、「簡素な言葉」で現代人がイメージできる言葉に翻訳した阿含経を世に出すようにしたいものです。
『国訳一切経』、『阿含経に学ぶ脳と心』を参考に、「阿含経には当たり前のことが当たり前のように書かれている」という前提で阿含経を見に参りましょう。難解とされている阿含経を、現代人がイメージできる言葉に翻訳して、理解を深めて参りましょう。
下記の雑阿含経『学経』では「身見、疑惑、戒取」を断ずれば須陀洹であるという。
「是の如く知り、是れの如く見て、三結の謂ゆる 身見、 疑惑、 戒取を断ず。 此の三結を断ぜば須陀洹を得て悪趣の法に堕ちず」
大東出版社 国訳一切経 阿含部 雑阿含経12581『学経』 この「身見」とはどのようなイメージなのでしょうか。「ひの出版室HOME」 を参照して理解を深めましょう。
平成29年11月15日(12月9日改訂) 身見 心は身見によって縛られており、身見を離れるのが心を変える条件であり、身見を離れると心が変わり出します。 身見は縁起の法の先頭にある「無明」から生じます。動物の進化の過程で蓄積された「動物の行動原理」の表れです。智慧で制御する余地が無く無条件に動いてしまいます。 すなわち身見は欲念によって生じ我見(がけん)となって表れます。 身見の一番強いものは「猿の時代の心」です。 身見があると、「自分は偉いのだ」とつぶやき、想(おも)い、「偉く見せよう」と言葉を発し続けます。 長く修行を重ねていても、自分がこのようになっていると気がつく機会はなかなかありません。本人は気が付かなくても、周りの人にはすぐに分かってしまいます。 日々の行動は、身見を離れ、人を責めることがなく、慈愛にあふれたものになっているでしょうか。 身見を離れて、はじめて須陀洹への道が開けてきます。
WEB ひの出版室HOME 道を知る① 平成29年11月15日(12月9日改訂) とても分かり易い解説です。身見は、進化の過程で獲得された動物脳の反応であり、無条件に動いてしまう「動物の行動原理」であり、「無明」であるという。アメーバから進化し、魚、両生類、爬虫類、哺乳類、サル、ヒトと進化の過程で自身の生存と子孫繁栄が動物脳にプログラムされ、蓄積されてきました。これは無条件に衝動として動いてしまうので、古来より殺生、偸盗、邪淫を、十善戒の身体の3つの戒めとしています。また、自らの縄張りを犯されそうになると、衝動的に怒り権益を守ろうとします。「貪」と「瞋」がこれに該当します。
サルの時代のプログラムは、ボスとなっていち早く餌にありつき、子孫を残すことが優先されるようになります。猿群団の中で偉くなろう、偉くなりたいという衝動が無条件に動きますが、この記憶がヒトとなっても動物のプログラムとして記憶が残り、自分の偉さ、正しさを主張する悪口、綺語、妄語、両舌を十善戒の4つの口に関する戒としています。
さらに慳貪、瞋恚、邪見の3つの戒があります。これは「貪、瞋、癡」と呼ばれるサル時代の心の動きですが、ヒトに進化しても以下のような形で現れます。少し長いですが、大切なことですので引用します。
① 不満を言う(略) ② 人を責める(略) ③ 嫉妬する(略) ④ 偉ぶる(略) ⑤ 馬鹿にされたくない(略) 心の動きが猿の心かどうか判定する良い方法があります。 その心の動きを表す言葉の先頭に「私は」、「私が」、「私を」などを表す言葉がついていませんか。 私は不満だ 私は妬ましい 私はくやしい 私はいやだ 私を馬鹿にするな 私は正しい 私は優秀だ 私は偉い 私の方が上だ 私に言うことを聞け このような「私」がついた心の動きはすべて猿の心です。 面白いですね。まだあります。 私は幸せだ 私は元気だ 私は楽しい このような心はどうでしょうか。猿の心が見えてきませんか。 猿の心は本当に強いものいです。人間は殆ど猿だと思ってしまいます。少しでも自分が勝っている部分を見つけ、作り出そうとしています。解脱を求める心も、勝った自分になりたいだけかもしれません。 しかし、解脱は猿の心を脱出してから動き出します、 ここに解脱に向かっているつもりであっても解脱が進まない原因があります。猿の心によって自分の優位性を保とうとする、この部分を智慧によって納得がゆく姿にイメージを変換出来ねばなりません。ここが一番難しいのです。 ただ物理的な作業を積み重ねているだけではうまくいかないかもしれません。相当解脱が進んだつもりになっている人でも、まだ自分は勝っているのだ、という思いが浮かび上がってきてしまう。この強い猿の心から脱出するのが解脱へ向かう最大の難関です。
ひの出版室『仏陀に学ぶ脳と心 掉慢無明を捨離す』第五巻 阿山恭久著 2014年 32頁~36頁 大乗仏教でいう「貪、瞋、癡」、阿含経に出てくる「欲、恚、癡」、「淫、怒、癡」、「欲念、恚念、害念」、「欲心、恚心、害心」はいずれもサルの心であるという。ではヒトの心はどのようなものでしょうか。 動物から人間になったときに新しく生じた、ヒトの心がありますが、これについても予め知っておいた方が良いので以下に引用しておきます。
人間以外の動物は仲間と争ったときにどんなに激しく戦っても相手を殺してしまうことはありません。勝負がついたら潔く別れます。 人間はどうでしょうか。相手も息の根を止めるまで手をゆるめないのです。 これが人間の特徴です。人間は執着するのです。もし負けて死んでしまったら、化けてでるのです。来世には必ず強くなってやっけてやる、これが人間の心です。ここ心の状態から人類が脱出しないと真の世界の平和は訪れないでしょう。(略) この自分を偉く見せようとするエネルギーは人間になってから一段と強まっていて、人の生き様は殆どこの自分の段階を上げようと動き、もがいているのではありませんか。文明の進歩はこの思いによって育まれ、争いのカルマもこの思いから生じてきました。(略)
ひの出版室『仏陀に学ぶ脳と心 掉慢無明を捨離す』第五巻 阿山恭久著 2014年 37頁~39頁 ヒトは執着するというのです。阿含経では、「我慢」、「掉慢無明」と呼ばれます。 さて、身見に戻りましょう。まとめますと以下となります。 ① 身見は欲念によって生じる我見(自己中心の心)の事 ② 身見とは自己中心の心を生じるものの見方 ③ 身見は、縁起の法の先頭にある「無明」から生じ、動物の進化の過程で蓄積された「動物の行動原理」の表れであり、智慧で制御する余地が無く無条件に動く ④ 私の、私が、等「私」がついた心の動きはすべて猿の心であり、身見の表れ ⑤ 身見を離れ、人を責めることがなく、慈愛にあふれた存在となること
さあ、これで身見を離れることができそうでしょうか。
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次回は、須陀洹の「身見」についての補足、「疑惑」、「戒取」と、もう一つの定義である「信、戒、施、聖戒成就」についてご紹介します。合掌