居場所をつくることへの想い
「自立とは、依存先を増やすこと」
とても好きな言葉で、深く納得する言葉。
私にとって依存先とは、「居場所」みたいなこと。
そこのメンバーで、当たり前にそこにいてよくて、私を許容して基本的に好きでいてくれる、安心な場所。
そういう場所がたくさんあれば、心が安定して、自分を信じて立っていられる。
私は自信ありげに見えるけど、基本的には空気読みまくる天秤座で、人の評価をとても気にして生きている。
努力して得た評価を自信として積み重ねていくというか。
でもそれは、また別の人の評価ですぐ揺らいでしまう、危ういものだと思っている。
若い頃はとても、不安だった。
絶対的な家族はいたけど、幼なじみとか親友とかいなくて、誰にとっても特別じゃない気がして不安だった。
友達にとって自分が同じくらい大事じゃないのがこわくて、独占欲が攻撃に変わったりしてた頃もあった。
親友だよね♥️とか言える素直さもなくて。
今思えば、私は全部さらけ出してずっと一緒にいたい人だから、同じくらい大事に思ってくれていても私にはそう受け取れないこともあったんだろう。
そりゃ一人になりたい時もあろうし、踏み込まれたくない領域があるのも当然なんだけど。
私にはそういう気分や領域がないので、理解できなかった。(おそろしい性質…!)
修学旅行、部活のみんなで班をつくることになってうれしかったのを覚えてる。
みんな他にも友達たくさんいるのに、部活で回るってことは大事ってことだよね、みたいな。
そのくらい、居場所なき不安が強かった。
言葉にすると重いけど、そういう不安って、あるあるじゃない????
大学に入って、サークルやらバイトやら彼氏やら、いろんな居場所ができて一気に安定した。
特にサークルはしょーもない人がたくさんいたけど、受容力がめちゃくちゃ高くて、ホームがあるっていいなぁと思える経験だった。
いつもいる人、たまに来る人、まともな人、変すぎて面白い人、色々ダメな人、気分屋な人、泣く人、いなくなる人、帰ってくる人、、、色々いて、流動的だけど常にそこにホームがあって、全部酒と笑いに流されていく、ズッコケ大家族みたいなゆるさがあった。
所在ない大学の一角にサークルのコモンスペースがあって、詰めて10人くらい座れるだけのテーブルと椅子だけど、そこに行けば誰かいて、だべったり飲みに行ったりできた。
そういう関係が心地よくて、村を作ってみんなで近くに住みたいと思い始めたのもこの頃。
誘うとか約束するのって、そこそこストレスだから。
決定的だったのは、会社同期3人でルームシェアするようになったこと。
本当に暮らしを共にしてもいいと言ってくれる親友ができて、私の自立は完成したような気がする。
たくさんの人があの家に出入りして、入り浸って、約束しなくてもそこにいれば誰かがいるという関係は、まさに居場所だと思う。
そしてそれはもうその家がなくても続いている。
今は夫と子供が当たり前に家にいる。
婚姻なんて契り交わしてるわけだし、子は血が繋がっていて、簡単には破棄されない居場所契約。
そういう、契約的居場所ももちろん大事なんだけど、それがなくても居場所はつくれる。
居場所が一つでいい人もいれば、いくつかあった方が安定する人もいて、私は後者なんだと思う。
私にとって住まいを共にするということは、居場所をひとつ増やすということ。
みんなのリビングがあって、キッチンがある。
いつもみんなでいるわけじゃないけど、なんとなく誰かといたい時はそこにいけば誰かがいる。
幸い大家である私は一人でいたい時がないので笑、いつでもお付き合いできる。
私の居場所の一つでもあり、住人さんの居場所でもあり、街の人やまだ見ぬ誰かの居場所でもある。
そういう家をつくりたいのです。
居場所がひとつ増えることで、誰かの自信が強まって、自由に楽しく生きる人が増えることを願って。
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