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深みのあることばを言ってみたい。

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

昨日は自分の読書会の前に、上池袋で開催された「かみいけ・ゆる読書会」に参加してきました。

来週の木曜日(4月13日)に刊行される長編作品「街とその不確かな壁」の前に、村上春樹さんの作品について語ろうという企画。

村上春樹さんの作品を翻訳を含めて数多く読まれている方がおり、全作品の2、3割くらいしか読んでない私からしたら非常に勉強になりました。

村上作品で読んだものと言えば、学生時代に読んだ「風の歌を聴け」や「ノルウェイの森」、社会人になって読み切った「1Q84 」や「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」などなど。

あとは「走ることについて語るときに僕の語ること」や「もし僕らのことばが、ウィスキーであったなら」などのエッセイ作品。翻訳作品は読んだ覚えがない。

「ノルウェイの森」は 高 妍さんの「緑の歌」に登場したのと、一番最初に触れた村上作品だったからか印象に残っている。

だが、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」や「1Q84」しかり、作品にのめり込んで読んだのだが、その物語(プロット)を思い出せないのが多い。

だが情景が印象に残る場面が多い。近所のボヤ騒ぎを眺めてビールを飲んだり、いつまでもNHKの集金のためにドアを叩いたり。「そして王国がやってくる」「待ち切れない」。

正直「色彩を持たない…」に関しては、プリウスの話以外覚えてない。夜更しして読んだのだが、いや夜更ししたからなのか、筋書きが思い出せない。やれやれ。

私は考察は得意ではない。そもそも考えるのが苦手ゆえに、言葉の表面しかなぞるばかり。ハルキストのように、表現を深く味わうには程遠い。

以前神保町のとある古書店でずっと長い間陳列されていた「1973年のピンボール」。比喩や例え話にマーカーペンで線が引かれていた。そこまで味わってからこそ、本当に読んだと言えるのだろうか(ちなみに今はもうない)。

話は変わるが、先日読み終えた「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」新潮社 (1999)より、タイトル通り"言葉"について語られている。

僕は黙ってグラフを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。

同著 13頁より抜粋

あくまでもウィスキーをつくっているのは、機械や工場ではなく、人間が造っていることが前提にある。

年齢を重ねていけば、言葉がより深く、より複雑になっていくと思う。その言葉はただの上辺だけの文字ではなく、その人の経験により生み出された言葉となる。

だから経験や体験を重ねることに意味がある。人生に深みを与えるのは、楽しい思い出よりも、悲しさやつらい経験かもしれないと、最近はよく思う。

ただまぁ、私の言葉なんて角瓶ほどにも深みはないけれども。せめて、だるまくらいにはなりたいけれども。それではまた次回!

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