命の話
皆さん、命って大切にしてます?
命を大切にしてますか?
(…当たり前だろ。という視線を感じる)
んー。
でも、本当に
自分と他人の命、大切にしてますか?
(…なんだこいつ?という視線を感じる)
今日はそんなお話です。
そもそも「命」ってなんだと思いますか?
ちょっと抽象的で難しいですよね。命。
じゃあ質問を変えます。工学部出身の技術者っぽく。
「命」の単位って何だと思いますか?
命の単位
単位とは重さ(質量)ならkg(キログラム)、長さならm(メートル)といった物の量を測るときに使う記号のことです。
理科や物理を勉強したことある人はSI基本単位というのをご存じかもしれません。
学問的に言えば物理量というもので、その名の通りこの世界の物理的な量を測るのに使われる記号です。
例えば人の体重だったら52kgとか71kgとか測りますよね。それがわかるとあー今月1kg太っちゃったなとかわかって、ダイエットするきっかけになったりするわけです。
例えば車の速さだったら、走った距離mを時間sで割り算することで車の速さがわかるので単位はm/sになるわけです。
(ちゃんと分子がmで分母がsに見えますよね。)
このように単位の組み合わせで、色んなものの量が決められています。
こんなかんじで物理の世界では基本的に下の表の右側に書かれた基本単位とその組み合わせで様々な物を測ることができます。
この中で「命」に単位をつけるとするなら、どれになるでしょうか。
言い換えれば、私の命って何で測れるかな?という問題です。
これは皆さんの命の価値観によると思います。
ぜひよかったら、コメントで面白い解答をお待ちしています。
ちなみに私が一番しっくりくるのはs(秒)です。
つまり時間の単位です。
命=寿命ととらえると、私が生まれてから死ぬまでの時間が私の命と解釈できます。
例えば、デスノートで死神の目には寿命が見えてるじゃないですか。あれはつまり、死神目線だと頭に浮かぶ数字(時間)そのものがその人の命として測られてることになりますよね。「こいつの命は20年、あいつの命は10日だな。」みたいに。
漫画脳な私は命は時間で測るのがしっくりくると思うわけです。
命の測定
せっかくなので私の命(=時間)はあとどのくらいか測ってみようと思います。
平均寿命は81才くらいらしいので、
平均まで生きるとすれば、残り81年 - 28年=53年。
日に直せば、53×365=19,345日
時間に直せば、19,345×24=464,280時間(46万時間)
秒に直せば、464,280×3600=1,671,408,000秒(16.7億秒)
まあこれはあくまで平均寿命で死んだときなので、仮に65歳で死ぬとしたらもっと短いですね。私の命。計算したら32万時間くらいでした。結構減りますね。
厚労省さんの調べによると日本でもだいたい男女で合わせても500人に1人は65才なるまでに死ぬようです。宝くじ2枚買って10000円が当たるくらいの確率で高齢者手前で人間って死ぬんですね。なんか全然ありそうです。
さらに1000人に1人は40才のときに死んでるようです。(宝くじ1枚で10000円分のアンラッキー)
もしその確率ひいてた場合、私の寿命はあと10数年分です。
そうだとしたら、いよいよ焦りますね。
だって、寝てる時間と仕事する時間を差し引いたら、自由な時間って1/3くらいでしょ?てことはあと正味4年分くらいしかやりたいことに自由に使えません。うわあああ。
時間を無駄にしないようにしなきゃ、命を大切にしなきゃ。何かやり残してることないか。えらいこっちゃ。なにしよう。どうしよう。うわあああ。
暇なときに自分の自由に使える命(時間)が今の生活リズムでどのくらいか試しに計算してみるのおすすめです。無性に焦ります笑(悪魔のささやき)
でも命(時間)を測っただけで、なんでこんな焦りの感情が生まれるのかなと考えてみると不思議です。
でも実は似たような体験が生活の中でも多くあります。
焼肉90分食べ放題って、残り時間のタイマーがついてますよね。あれって時間を測っているわけです。
ラストオーダーの時間が近づいてくると、最期に食べたかったアイスとか、おいしかったメニューを再度頼むじゃないですか?あれと似てるなと思います。
残された時間に目を向けると人間はどうやら、終了の時間の前に自分の好きなものを食べておかなきゃもったいないって思うようです。
でも死神の目を持ってない私も皆も、命(時間)があとどれくらいか正確に測ることができません。
なので人生のラストオーダー(余命宣告)をあまり気にせず、日々焦らず暮らしているようです。
(ちなみに私が人生のラストオーダーで食べたいアイスはシャトレーゼのチョコバッキーです。なので私が死ぬ間際にはチョコバッキーを口に放り込んでください笑)
命と人生
そういえば「命」と似た言葉に「人生」という言葉があります。
ややこしいことにどっちも英語ではLIFEと訳します。
さっきも話したように私は「命」と言われると時間のイメージがあります。
なのでどちらかと言えば、時間(time)を足してLifetime(命、寿命)と言われた方がしっくりきます。
でも「人生」と言われて思い浮かぶのは、自分の過去の思い出や記憶、体験といった映像のイメージです。
わかりやすく例えるならば、
人生は「私を主人公とする映画」
命は「映画の再生時間(かつ撮影時間)」
です。
命の映画
さらに私の人生のイメージを具体化してみると、生まれてから死ぬまでの再生時間をもつ超大作映画のような巨大な動画ファイルのようなものです。
人生.mp4 (10000TB)みたいな。
イメージしてください。人生.mp4を再生してみます。
1/3くらいは睡眠時間で真っ暗な動画です。寝てますね。暗い映像が終わると、主人公である私が、朝起きて、着替えて、仕事したり、学校に行ったり、帰ってきて、ご飯食べて、寝るまでの動画が24時間おきに似たようなことを繰り返します。休日はなにかちょっと違うことが起きる。そしてずーっと再生してると、長い動画が終わり、死んでエンドロールが流れる。そのエンドロールにはきっと家族や友だち、人生で関わったすべての人たちの名前が書いてあるわけです。エモいですね。
これが私が持つ「人生」のイメージです。
私の命(時間)をどう使うか、つまりどんな人生(映画)にするかは私が自由に決められます。言うなれば私はこの映画の監督です。
映画(人生)のテーマをラブコメにしたければ、好きな人といる時間を大切してもいい。冒険物にしたければ、海外を飛び回ってもいい。仕事で成功して夢をつかむ映画にしたければ、必死に努力する時間や屈辱を味わう時間(シーン)も必要でしょう。友情をテーマにするなら友達との時間(シーン)をとればいい。ゾンビ映画なら、、、未知のウイルス撒くのは勘弁してほしいですね(笑)
監督の私次第でいろんな時間の使い方、一本の超大作映画(人生)が出来上がります。そしてその撮影時間が命にあたります。
そう考えると、私たちは日々、死ぬまでの命(時間)を使って、一生懸命映画を撮ってるわけです。それを脳の中の記憶領域にしまって日々過ごしている。いっぺん見てみたいですね。自分のこれまで撮りためた映画。
好きな人といる時間を大事にしてもいいし、何か成し遂げたいことのためにがんばってもいい、休んでもいい、たくさん寝てもいい、おいしいものを食べてもいい、友達と遊びに行ったり、家族との時間を大事にしてもいい。
そんな映画の中で私は自分にとって生きてて良かったと思える時間(シーン)をこれからたくさん撮りたいです。
この感情は「男はつらいよ」の寅さんが人間が何のために生きるかを答えるシーンのセリフに近いものがあります。
そしてその命(時間)の使い方は主人公兼監督の私の当然の権利です。誰かが決めるべきものではありません。
でも、人の命(時間)を平気で奪ってくるもの、つまり撮影を邪魔してくる不届きものがこの世界にはあります。
命を奪う者
それは大きく見れば、会社や学校などの組織、小さく見れば、他人です。
あなたがしたいようにするのを妨げる組織のルールや障害は近くにありませんか?
一方的に人の時間を奪って、不快な思いをさせてくる人はいませんか?
あなたのためや組織のためと言って、納得できない主張を強制してくる人はいませんか?
もちろん、ときにはそういうことに命(時間)を使って、それが後々うまくいくための手段になることもあります。
社会に出て自分を抑え、周りにかわいがられることもあなたの賢い生存戦略の一つです。
でも、自分の命(時間)をあまりに軽視して、自分の命を他人に預けすぎてしまうと自分の映画で何を撮りたかったのか、もとい人生で死ぬまでに何をやりたかったのか忙しい日々で私たちは忘れてしまいがちです。
とくに真面目で優しくて自分よりも他人を優先させてしまう人が陥りがちだと思います。
忙しく他人のために働いて、定年近くなって、ふと人生を振り返ったとき、そういえば自分のやりたいことってなんだったっけとなる。そんな人は近くにいませんか?大切にしたかったものはなんだったっけ。ほしいもの手に入れられたっけ。と。
でも実はそんな人は私はとても尊敬できる人だと思います。
命を守る者
だってそんな人たちは自分の命(時間)を誰かに使うことをいとわず、人の命(時間)を奪わないように必死で頑張ってきた人たちなわけです。そしてそんな人は誰かから感謝されながら生きてる人たちです。(直接お礼は言われなくても誰かの心の中で感謝されてます。)
そういう人たちを概して私たちは物語の中で英雄とか、ヒーローとかって呼ぶんですよね。自分の命(時間)を顧みずに他人の命(時間)を守る人を。
会社で私ができない仕事を引き受けてくれる誰かが自分の命(時間)を使って、私の命(時間)を作ってくれている。その人が本当は大切にしたかった家族との時間(命)を削って、私に時間(命)をくれているかもしれない。
そして私はその人の命(時間)を奪っているかもしれない。
私が子供の頃、高校や大学に行けたりしたのは、共働きである両親が、職場で頭を下げたくない相手に我慢して頭を下げ、忙しい中、自分のやりたいことを我慢して自分の命(時間)を私を育てるために費やしてくれたおかげでしょう。そんな両親の命をもらって生かされてるわけです。
コロナ過で自分の命(時間)、家族との時間(命)を犠牲にして、助けてくれた医療従事者の方が大勢いました。そんな彼らの命(時間)を私たちはもらって今こうして生きています。
そんな想像力を皆が持ったら、私たちはもっと他人に優しく、感謝しあい、協力しあって幸せになれるのかもしれません。
私の命(時間)を守ってくれているヒーロー達に対して感謝や敬意を忘れてはいけないし、そんな彼らに任せて私の時間(命)だけを考えてしまうことはとても自己中心的で恥ずかしい行為です。
また、そんな自分の命(時間)を削って戦っている人が心を疲弊させていき、やがて心が折れていく環境を当たり前のように、仕方がないことと放置するのもおかしい。
そうなればいずれ誰も仕事なんてしなくなります。時間のかかる面倒な仕事を押し付けあってはいがみ合い、誰もやる人がいないから、今度は違う誰かに押し付けよう。そうなるのは自明です。
「命(時間)がもったいない」
そういう気持ちを多くの人が持ってほしい。ONE PIECE でコビーも言ってますね。そうした考えを持つかどうかはあなたの決めることですが、私はそう思える大人をかっこいい大人として尊敬しています。
それでは最後に、最初の質問に戻りましょう。
命を大切にしてますか?
あなたは自分の命
つまり
自分の時間を大切にしていますか?
どう命(時間)を使うか、自分で自由に決められていますか?
自分の命(時間)の決定権を誰かに奪われていませんか?
今生き生きしていると思えることに命(時間)を費やせていますか?
自分の命(時間)を誰かに委ねることもまた、監督であり主人公であるあなたが自由に決めることです。そうすることで得られる安心や得もあると思います。
でも鬼滅の刃で富岡義勇が炭次郎に言ってました。
自分の命を他人に委ねるなと。言い換えれば、他人に自分の命を奪わせる行為です。厳しい言い方をするなら、自分の命を殺す責任を相手になすりつける行為です。
命は時間です。
あなたの時間はかけがえのないあなたの命である
と同時に、
他の誰かの時間もまたかけがえのない誰かの命である
ということを忙しい日常で忘れてはいませんか。
誰かの命(時間)を拘束していませんか?
誰かの命(時間)を奪ってはいませんか?
誰かが生き生きとした自分の時間を持つことを邪魔してはいませんか?