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死刑囚と繋がりのある人々を訪ねて②情状証人
土屋和也さんと繋がりのある人々を訪ねて
私はまた、湘南新宿ライン特別快速に乗って終点の高崎へ向かっていた。先日、一審弁護人へ取材しに前橋へ訪れて以来である。その際に紹介されたある人に話を聞くため、再び前橋へと足を運んだ。
土屋さんが18歳から20歳にかけて住んでいた自立支援ホーム『風の家』で、彼の青春時代を共にした佐藤さんの元を訪ねた。
私は中田先生の取材時に佐藤さんの存在を知った。取材協力の依頼をするため、下記の手紙を送付していた。
手紙ー佐藤さんへ
こんにちは。突然のお手紙をお許しください。私は東京都在住の河内千鶴と申します。土屋和也さんの一審代理人弁護士、中田先生から佐藤さまのお名前を頂戴し、ご連絡致しました。
このたびは、土屋和也さんの件で、佐藤さまのもとへお話を伺いに参りたく、お便りを差し出した次第です。
私は都内で勤めながら、ライフワークとしてライター業もさせて頂いております。多くは死刑囚の方々の日常をテーマに、週刊誌や音楽誌等の紙媒体に寄稿してきました。
"死刑囚"と呼ばれる人たちを、一人の人間として書き示すことを心がけながら、取材を続けております。
去年末、縁あって土屋さんと出会い、数回の面会と文通交流を続けています。
面会と文通を通じて接していく過程で、彼と繋がりのあった人々や、彼の置かれた環境を辿ろうと思い至りました。
先日、土屋さんの一審弁護人を務められた中田先生の事務所へお邪魔し、聞き取りを行なっておりましたところ、中田先生より佐藤さまの存在をお知らせ頂きました。
そこで、土屋さんに対して、わたし自身の理解をもう一段階深めたく、お話をするお時間を頂けないでしょうか。
ご都合の良い時に、佐藤さまの元へお伺いしたく存じます。
大変お忙しい中、恐縮ですが、一度返信いただけましたら幸いです。下記メールアドレス宛でも勿論構いません。
色彩あふれる紅葉の美しさに、心弾む季節となりました。秋も深まり、夜寒を覚える今日この頃、体調管理にはくれぐれもお気をつけください。
2018/10/20 河内千鶴
返信あり
ワードの文書で寄せられた返信には、「メールの返信がなかったので同内容を送付します」という旨が冒頭に書かれていた。
私はハッとしてすぐメールを探したが、佐藤さんを名乗る人からの返信は無い。
検索をかけると、あった。何故か迷惑メールに振り分けられていた。
どうやら佐藤さんは私の手紙に気づいてすぐ私のメールアドレス宛に返信してくれていたようだが、私が失念していたのである。すぐさま謝罪と取材日確定をしたく、返信した。
佐藤さんはメールの段階から世話好きのような空気を漂わせていた。
土屋さんが必要としてくれているか否かが確信できず、東京拘置所まで面会に行くことを思い留まっていたようだ。
協力できることはしたい、と取材協力の申し入れにも快く対応してくれた。数回のメールやりとりの後、取材日は11月23日に決まった。
再び、前橋へ
池袋から約100分かけて高崎まで、そこからさらに伊勢崎線に乗り換え前橋まで。鈍行だと片道二時間の電車旅である。
前橋駅の隣は、前橋大島駅。先日取材した一審弁護人が務める、なかだ法律事務所がある場所だ。
午後一時半頃、私は前橋駅に到着していた。改札口を出て右に曲がり、駅前広場をさらに右に進むと、一般乗用車の駐車場がある。そこで薄茶色の軽自動車を背にこちらを向いている人がいた。佐藤さんだ。
すぐに名刺を手渡され、佐藤さん行きつけの中華料理屋で昼食を摂ろうとなり、車に乗り込んだ。
取材ー佐藤さん
寄り添い人
車に乗り込むとすぐ、佐藤さんはファイルに挟んだ複数枚の紙を私に手渡した。
これまでに関わった子どもたちとの出会いや、佐藤さんの元を離れていく様子などを綴った体験記のような内容だという。
タイトルは『寄り添い人』。すべて書き終えたら、ゆくゆくは書籍にしたいと教えてくれた。
その中に、土屋さんのことが書かれたものがあった。
「彼のことをありのままに書いたものなので。帰りの電車で読んでください」と。
佐藤さんは、長く前橋の自立支援ホームで子どもたちとの生活を送ってきた。主には児童養護施設から出所した子どもたちの生活支援だそうだ。
自立支援ホーム『風の家』。現在は閉鎖されている。土屋さんが居たとき、佐藤さんはここでボランティアとして携わっていた。土屋さんが風の家を出て仕事を始めてからは施設長に。風の家は20歳までしか居られないため、そこを出るとセイフティーネットは完全に閉ざされてしまう。佐藤さんはこのことを懸念し、大人になってからも助けを求められる場所を作れないかと考えた。そして2014年10月、アフターケアの事業所『ひだまりサロン』を立ち上げるに至る。理事を務めていたが、後輩に譲渡し、現在はフリーで子どもたちのサポートをしているという。
佐藤さんの行きつけの中華料理店にたどり着くと、お昼のピークを過ぎているとはいえ行列ができていた。
店内はかなり賑わっている。外の空いている席に通され、取材を始めた。
情状証人として
「僕が証人に立たないと、和也を守る人が誰も居なくなると思ったんです」
証人として法廷に立った経緯を訪ねると、佐藤さんはこう答えた。
佐藤さん曰く、本人との関わりが特に深かったというわけではないようだ。ただ、本人のことを細部まで語れなくとも、関わってきた身として、できることは尽くそうと考えたと話してくれた。
佐藤さんは、前橋地裁で証人に立って以降、何度も傍聴に足を運び、面会にも訪れた。
土屋さんが東京へ移送されてから、何度も東京へ面会に行こうかと考えたそうだが、
「和也が僕を必要としてくれているのかわからなくて思い留まってるんです」と戸惑う表情をみせた。
また、取材中、
「和也の事件は、自分の責任でもあった」という旨の発言を何度も繰り返している。
「ひだまりサロン始めたのは、和也の事件の後なんだよね」
佐藤さんは続ける。
土屋さんの事件をうけて、ひだまりサロンの事業を始めたことは戒めなのだろうか。私にはそう聞こえてならない。
土屋さんの風の家での暮らしのこと、面会時に本人と交わした会話、取り巻く人々のこと。次々と投げられる私の質問に、佐藤さんは当時を思い出しながら丁寧に答えてくれた。
取材の詳細は、別の媒体でも報告したいと思う。
周りの大人が子どもを育てる
一時間ほどして、ランチの営業が落ち着いたのか、お店の方が
「佐藤さん、コーヒー飲んでいきな」と店の内に招き入れてくれた。
「○○ちゃん元気?」
「○○は最近来ないね!」
私たちが腰をおろすとすぐ従業員らが佐藤さんに話しかける。その度に佐藤さんは嬉しそうに言葉を返す。
私は終始、このやりとりを眺めていた。どこかの家庭にお邪魔したような気になっていた。
佐藤さんはここでよく、支援している子どもたちと食事を済ませるのだそう。
佐藤さんと共に暮らす子どもたちも、ここの店の大人たちと共に成長していくのだろうか。人思いの大人たちに囲まれ、嬉しいも、悲しいも、共有していくのだろうか。その風景は幸せそのもののように思える。
事件現場へー取材の後で
佐藤さんに土屋さんの犯行現場を見たいと伝え、車で連れていってもらうことになった。
第一次犯行現場
裁判では日吉事件と呼ばれていたが、ここにあった家は今はもう無かった。駐車場となり、跡形もなくなっている。
佐藤さん曰く、「なぜここに盗みに入ったのかと思うようなところだった」そうだ。
周りは静かな住宅街で、近くには公園もある。本当にここで殺人事件が起きたのかと疑うほど、この日は穏やかな時が流れていた。
「事件当時は、黄色のテープが張り巡らされて通れなくなっててね。大変だったよ」
佐藤さんは、事件現場付近に着くと懐かしげに言った。
第二次犯行現場
次に、第二次犯行現場、いわゆる三俣事件が起きた場所へ向かった。第一次犯行現場から車で数分のところである。
現場付近を巡回したのだが、佐藤さんの案内でも特定ができなかった。
「最近取り壊しが多くなってるから、もう無くなってるのか?」と佐藤さんは言っていたが、本当のところは判っていない。
自立支援ホーム・風の家
ここにも立ち寄った。家族が住んでいることを想像させるような2階建の瓦屋根の一軒家だ。よく見ると、全ての窓ガラスに逃亡防止の柵が固定されてあった。ここで土屋さんは二十歳まで住んでいたのだ。
これで事件の舞台となる場所、土屋さんの青春時代を過ごした場所はおおよそ巡ったことになる。
駅に送ってもらう途中、土屋さんが一人暮らしをしていたというアパートも探してみたのだが、特定できなかった。古びれたアパートだったようだ。その付近は数カ所にわたり取り壊しの工事がなされていた。もしかしたら土屋さんの元住居も取り壊されたのだろうか。
紅葉
夕方になろうとしていた。私は東京へ戻ると伝え、前橋駅に向かうことにした。
この日は三連休の初日。ニュースでは紅葉の見頃を伝えていた。
群馬県は紅葉の名所でもある。私が前橋に訪れたときには既に葉が赤く染まり、街を鮮やかに彩っていた。冷たい風に吹かれ、西の太陽に照らされる紅葉の木々は輝いている。
ビューっと強い風が吹くと、赤く染まった木々はカサカサと空に向かって謳歌した。
「風の家にいるときの和也は、今までで一番明るかったし、楽しそうだった」
佐藤さんのことの言葉がよぎる。
紅葉が謳歌する姿は、過去の明るかった時代の土屋さんを映し出してくれたのだろう。