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オイルサーディンと冷たい黒パン。

 思いがけず小さな出来事が、その後の人生を変える。心の柔らかな場所に“何か“を刻印し、変形させてしまう。そんな瞬間が人生にはある。

 ぼくにとっては、あの夜はそうだった。凍えるような寒い夜だった。誰もいないキッチンで、たった1人でオイルサーディンと冷たい黒パンを齧っていた。これまでおびただしい回数の食事をしてきたが、あれほど味気ない食事は後にも先にもない。あれは特別な晩餐だった。あの時、僕のなかで決定的に何かが変わってしまった。

 狂騒のバブル経済へと駆け上がっていく前夜の1988年の冬。19歳だった僕は、南ドイツのムルナウという小さな村にいた。村の真ん中には、ゲーテ・インスティチュートというドイツ語学校があった。なぜあんな小さな村に語学学校があったのかわからない。それでも当時は世界中から100人ぐらいの老若男女がムルナウを訪れ、村の家々に下宿をし、ドイツ語を学んでいた。僕もそんな生徒の1人だった。

 ムルナウは、美しい村だった。まるでハイジが住んでいるような牧歌的なたたずまいで、アルプスをのぞみ、美しい湖もあり、小さな教会があった。家々の窓にはお花が飾られる、まるで絵葉書のような村だった。その村で暮らしたのは11月から2月の極寒の時期だった。寒い日には氷点下10度を何度も下回り、人生で初めてダイヤモンドダストを見た。あまりに寒く、日本から持って行ったビニールのジャンパーでは歯が立たず、なけなしの小遣いで革のコートを新調した。

 事件が起きたのは、2月の三連休だった。ドイツでの滞在にも慣れてきて、言葉もある程度使いこなせるようになった頃だ。僕は当時、3人のルームメイトと下宿をしていた。その週末はみな遠出をすることになっていて、ぼくは珍しく1人で過ごすことになった。それはそれで悪くなかった。気兼ねせずに、共有のスペースを使えるし、夜だって誰にも気兼ねせずに好きなだけ本を読める。

 あの頃のぼくは、若くて、根拠のない自信に満ち溢れていた。なにをしてもなんとかなる、という自信のようなものがあった。広い世界をわたり歩き、身知らぬ国で、困難に直面したとしても、それを切り抜けることができるという奢りのようなものがあった。だからこそ、言葉が全くできないのにドイツの小さな村に飛び込み、判らないながらも辞書を片手に遊学生活を謳歌していた。

 連休前夜、ルームメイトたちとご飯を作って食べた。ビールを飲んで、音楽を聴いて、チェスをして、拙いドイツ語で、冗談を言い合った。いつもと同じ楽しい夜だった。翌朝、寝ぼけ眼で、3人を笑顔で送り出した。

"Viel Spass! Shoenes Wochenende!" 良い週末を、楽しんできてね、と。 

 それから僕はまたベッドに戻り二度寝をした。昼過ぎに起き、お湯を沸かし、インスタントコーヒーをすすった。窓からは抜けるような青い空がのぞいていた。それから机に向かって、少し勉強した。夕方、村のドイツ料理の店に行き、語学学校の学生むけに用意されている定食を食べた。レバーの肉団子のスープと、じゃがいもが添えられた豚肉の煮込み。それで600円ぐらいだった。食べ盛りの学生でも、満足できる量だった。

 日が落ちると、外は凍えるような寒さだった。火照った体に冷気が心地よかった。アイスバーンになった道を転ばないよう家まで歩いて帰った。玄関をはいるとコートを脱ぎ、キッチンにむかい、冷蔵庫に残っていたビールを部屋に持ちこんだ。パウラナーのバイスビール。歴史のある南ドイツを代表するビールだ。当時はひと瓶100円ぐらいで買えた。ドイツでアルコールは男性名詞なのだが、ビールだけは、水と同じ中性名詞だ。だからか、彼の国の人は、1リットルのジョッキでグビグビと飲む。その夜、ビールを飲みながら日本から持ってきたカフカの小説を読んだ。部屋のなかは暖かくて、カフカの不条理な迷宮のなかを右往左往するのは、とても心地がよかった。数時間かけて、あの日冷蔵庫にのこっていたビールを4本ぜんぶ飲んだ。そしてそのまま寝てしまった。

 翌朝もお昼過ぎに目がさめた。窓の外は風か強く、雪がふっていた。ドイツの住宅はセントラルヒーティングで部屋はつねに暖かだ。しかしキッチンの暖房は切れていた。Tシャツにスエット姿で、ぶるぶる震えながらお湯を沸かし、コーヒーをいれた。それからコーヒーを片手に暖房のきいた自分の部屋に戻った。ベッドに腰掛け、コーヒーをすすりながら今日1日をどう過ごすかを考えていた。特に予定はない。どうせ1人なのだからキッチンは自由に使える。だったら気兼ねなく和食を作って食べようと考えた。ムルナウには和食屋さんはなかった。だからぼくは和食に飢えていた。でもルームメイトとご飯をシェアすることが多く、しかも皆料理が大好きで、なかなか自分の番が回ってこなかった。だからこの週末は絶好の機会だった。近くのスーパーで冷蔵のカツレツをかってきて、卵と玉ねぎを出汁でにて即席カツ丼を作ろうか、それとも牛肉と野菜をたっぷり買いこんで日本のルーカレーを作るのもいい、まだ味噌も少し残っていたから豚汁も作れるな。

 ふと机の上に目をやると、卓上のカレンダーが目に入った。今日の日付を確認する。そうだ、連休なんだよな。で、今日は3連休の中日の日曜なんだよなと。ん、ちょっと待てよ。日曜日...急に心がすっと冷えた。

やばい。今日は日曜日じゃないか。

 日曜日のことを、ドイツでは安息日とよび、ありとあらゆる店が閉まる。この日はスーパーも空いていない。あいているのはレストランぐらいだ。とっさに財布に残っているお金を確認する。硬貨が何枚かしかない。日本円にして300円程度。レストランでご飯を食べるには足りない。もしムルナウに吉野家があったとしても、牛丼並が一杯たべられるかどうかだ。大盛りにすらできない。寒々としたキッチンに足を運び、残っている食材を確認する。前日、数日留守にするからと、パンもパスタも全部たべきっていた。お米も残っていなかった。冷蔵庫のなかをみてもバターと牛乳と萎れたレタスが残っていただけだった。やばい。食べるものがない。銀行口座にお金はまだ残っている。しかし日曜に銀行はあいていない。学校の仲の良い友達たちはみんな休暇で出かけて村には残っていない。今みたいにLINEがあるわけでも、そもそも携帯電話だってない。誰とも連絡がつかないし、誰も助けにきてくれない。世界にたったひとり取り残された気分だった。

 ひょっとしたらと思い立ち、村で一軒しかない銀行に行ってみることにした。極東からきた哀れな青年を可哀想だと思い、取り合ってくれるかもしれない。そんなことを考えながら、ガチガチに凍った路面に足を取られそうになりながら、銀行に向かった。雪は止んでいた。空はどんよりと曇っていて、刺すような寒さだった。ぼくはATMの手続きをしていなかったことに後悔し始めていた。親からはまとまった額を送金してもらい、それを一度におろす。それならATMはいらないだろう、とタカを括っていた。銀行に着くと、案の定シャッターが降りていた。ここまでは想定内だ。その横にインターフォンのようなものがあった。どう考えても、時間外対応窓口だ。迷わずにボタンを押す。思っていたたよりも大きな呼び出し音がなる。しばらく待ってみる。反応がない。もう一度押してみる。呼び出し音。なんの反応もない。何度も押してみる。それでも反応はない。銀行の横に門があり、その奥に住宅らしいものがあった。ひょっとするとこの銀行の人がすんでいるかもしれない。意を決して、大声で呼びかけてみた。

「すみません。お金を下ろしたいんです。どなたかいませんか」

反応はない。でもできることは他になかった。必死で呼びかけた。

「ぼくは日本からの留学生です。この週末食べるものがありません。口座には残金があります。それを下ろしさえすれば大丈夫なんです。だからお金を下ろさせてください。お願いします。」

 数度、呼びかけただろうか。まったく反応はなかった。人のいる気配もない。いよいよぼくは諦め、家に帰ることにした。また雪が降り始めたムルナウの目抜き通りには、誰も歩いていなかった。ザクッ、ザクッと凍った雪を踏みしめる音だけが響いていた。もっと大きな困難に襲われたことがないわけではない。でもそんな時にはアドレナリンを全開にして抗うことができる。でもぼくはこの小さな事件に打ちひしがれていた。家族や友人は数千キロはなれた日本にいる。ぼくの身に起きているこの事件を知る由もない。誰も頼れる人がいない。たった数千円のお金すら下ろすことができない。銀行は日曜日は休業であるという、冷徹なルールの前ではなすすべもない。

 家に帰りつくと、部屋にもどり布団をかぶって寝ることにした。手持ちのお金ではレストランにいくのは無理だ。スーパーも閉まっている。そもそもドイツに日曜に空いている店なんてない。キッチンにもなにもない。つまりそれは2日間たべるものがないということだ。動けば動いただけお腹がへる。どうせ食べるものがないなら動かないほうがいい。でもなかなか眠ることができなかった。昨夜のカフカの小説の続きを読んでみようと思った。しかし全く頭にはいってこない。

 窓の外はだんだん暗くなり始めた。寒々しいキッチンでコーヒーをいれて飲んだ。なんでもいい。何かが食べたい。空腹というよりは、なにかを食べることで心を満たしたかった。でも手元にはなにもない。なぜ昨日、このことに思い至らなかったんだろう。お金さえ下ろしておけば今ごろ、ビールを飲みながら美味しいカツ丼を食べていただろうに。ますます心細くなり、よるべのない自分が情けなくなって、涙がでてきた。

 失意の海で溺れそうになっていると、ふとドイツ在住のある人が話していたことを思い出した。

「ドイツにコンビニはないのよ。だから日本みたいにいつでもなんでも手に入るわけではないの。でもガソリンスタンドが24時間空いているの。それと駅の売店。旅行者が困らないように、そのふたつはいつでも空いてるのよ。だからそれがドイツのコンビニみたいなものなの」

 ムルナウには鉄道の駅はあるが、とても小さな無人駅だ。だから売店もない。しかしガソリンスタンドなら村のはずれに1軒あったはずだ。前に知人の車に載せてもらってミュンヘンにむかった時にみかけた覚えがある。ガソリンスタンドにいけば、パンやソーセージなら買えるかもしれない。歩いていくには15分くらいはかかるだろう。雪もふっているし、もう少しかかるかもしれない。それでも空腹を満たすものを手に入れるにはそれしか方法はない。とにかくいくしかない。

 外はすっかり暗くなっていた。村の中心を外れると、家もなく、歩道もない。雪がつもっていた。街灯がポツンポツンとあるが、家がないからか、やはり暗い。雪に足を取られないようゆっくりとしかすすめない。20分ぐらい歩くと、ぽつんとガソリンスタンドの明かりがみえた。ちゃんと営業している。人もいそうだ。なんとかなるかもしれない。

 ガソリンスタンドは思いの外、小さかった。無口な若い店員がちらっとこちらをみる。袖を切り落としたジージャンを羽織っていた。髪は肩ぐらいまであってライオンみたいななヘアスタイルだった。たぶんヘヴイメタルが好きなんだろう。店内は薄暗かった。車用品と並んで、心ばかりの食料品が売られていた。ガムやポテトチップス、グミなどが並んでいる。魅力的だが、いま必要なものは別だ。まずはパンだ。ちょっと湿ってそうな丸パンが売っていた。1つ1マルク。これだと数は買えない。そのよこに袋にはいった黒パンが売っていた。わりと量がある。2マルクちょっと。これだけあればなんとか凌げるだろう。まわりを見回すと缶詰を売っていた。オイルサーディンが安売りされていた。あまり食べたことはないが、パンとの相性は悪くなそうだ。

 結局、手持ちの現金ぎりぎりの黒パンとオイルサーディンをひとつ買った。ビールを買いたかったが我慢せざるをえなかった。

 家に帰ると、午後9時をまわっていた。冷たいキッチンでお湯を沸かしながら、黒パンにバターを塗り、オイルサーディンの缶をあけた。24時間以上、コーヒー以外は口にしていなかった。もうヘトヘトだった。不思議とお腹はへっていない。それでも何かたべないと、何か大きな邪悪なものに飲み込まれてしまいそうだった。じぶんを奮い立たせるように、コーヒーを口にする。泥水をすすっているようだった。味がしない黒パンは消しゴムをかんでいるようだった。オイルサーディンは魚臭さが妙に鼻につく。ものを食べる喜びは全くなかった。それでも無心で咀嚼した。気がつくと黒パンを数枚とオイルサーデーィンを平らげていた。満たされた気持ちにはこれっぽちもならなかった。ただ物理的に胃がいっぱいになるまで咀嚼をしつづけただけだった。

 いまでもあの夜のことを思い出す。

 オイルサーディンと冷たい黒パンを齧っていたぼくは、誰もいない世界で、ひとりぼっちだった。あの夜、ぼくのなかで何かが消失した。誰かの庇護のもとにあるという安心感のようなものかもしれない。自分では気づいていなかったが、ずっと守られてきたのだ。家族に、そして友人たちに。しかしあの夜は、その庇護の外側で、クタクタになりながらなんとか手に入れた食べ物を、味がしない黒パンと魚臭いオイルサーディンを、無心で口に運んだのだ。お前はこれまで随分と生意気に生きてきた。しかしお前はちっぽけな存在なのだ、と冷徹に言われているような気がした。

 あの夜以前のぼくと、あの夜以降のぼくとは別人だった。若さもあいまって無鉄砲に生きていた僕は、少しだけ人生に対して慎重になった。

 あの夜を通り過ぎなかったら、どんな人生を歩んでいるのだろう。


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