3ヶ月たった被災地へ。
その場所を自分の目でみたい。それが今回の旅の理由だった。
熊本の山間にある、木造三階建ての美しい旅館。令和2年7月豪雨で甚大な被害をうけた。あることがきっかけで、この旅館のことを知り、気になっていた。コロナ禍のなか、一歩をふみ出せずにいた。
世の中が動き出した10月、熊本へと向かった。
金曜の夕方、羽田空港の出発ロビーは、閑散としていた。外国人旅行客はほとんど見かけない。電光掲示板を見ると「欠航」と書かれた便が沢山あった。それでも19時発熊本行きの最終便は満席だった。客は全員マスクを、キャビンアテンドはフェイスガードをしている。もう何ヶ月もこうした風景を見てきた。でもこれだけはいまだに慣れない。
熊本は小雨がぱらつき、少し肌寒い。街はひとけもまばら。通りがかった居酒屋にとびこむと、客は僕たちだけ。さっさと食事を済ませ、ホテルにもどると、すぐに寝てしまった。
翌朝、在来線にのって、八代市へと向かう。どこかなつかしい感じの2両編成の小さな電車。部活動があるのか、中学生や高校生が目立つ。車窓からは一面にひろがるたんぼがみえた。
八代につくと、もくもくと白い煙が目にとびこんでくる。日本製紙の工場だ。Wikipediaによれば、八代市の人口は12万人あまり、八代海沿いにひらけた田園工業都市だという。YKKやヤマハなどの工場もある。ちなみに八代海は、旧暦の8月1日前後に不知火とよばれる蜃気楼があらわれることから不知火海としても知られる。
先に八代入りしていたFUKKO DESIGNの木村くんと駅で合流。ここからは球磨川沿いを車で旅館へと向かう。
八代市から人吉市まで、およそ50キロほどの球磨川流域は今回の水害で大きな被害をうけた。まもなく水害で崩落した道がところどころに現れる。落ちてしまっている橋もある。そのためある時は右岸、あるときは左岸を通らないと、川をさかのぼることができない。
改めて水の力のすさまじさを感じる。八代市と人吉市をを結ぶ唯一の鉄道、JR肥薩線。その線路は濁流に晒され、土台の土が流されていた。復旧には途方もない時間がかかるだろう。球磨川に面した工場は、倒木も、大量の土砂も、ぐにゃぐにゃになった屋根もほぼ手つかずのままだった。
八代から球磨川沿いに車で30分ほど走ると、木造三階の美しい建物が見えてくる、今回の目的地、昭和29年創業の鶴之湯旅館。歴史的に貴重なこの旅館も今回の豪雨で壊滅的な被害を受けた。
FUKKO DESIGNの仲間、木村くんはもともとこの旅館のご主人、土山大典さんと知り合い。被災直後からリモートで支援を始め、再建のためのクラウドファウンディングも立ち上げた。その流れでクラファンの応援コメントを頼まれ、この旅館のことを知った。わずかながらの支援もさせてもらった。
以来、ずっと気になっていた。ご主人の土山さんにもお会いしたかった。この日、土山さんは体調を崩されていた。被災して以来、ずっと休まずに働いてきたという。簡単にご挨拶をさせていただくに留めた。
あの日、濁流は一階部分を襲い、ほとんどのものが流された。地下に倉庫があったのだが、そこにも大量の土砂がながれこんだという。一度浸水してしまった家を住めるようにするには、とんでもない手間と時間がかかる。土砂をかき出すだけでも一苦労だし、しっかりと消毒と乾燥をしないとカビが生えてしまう。
水に浸からずに済んだ2階と3階を見せていただく。窓から見下ろす球磨川が美しい。障子のガラスは、美しい山間の村が描かれていた。古いものをていねいに使うことで生まれる、やさしい心地よさが旅館の中にみちている。
このあたりの集落は軒並み大きな被害をうけた。土山さんは、他のお宅で捨ててしまわれそうになったモノを譲り受け、再生をしようとしている。建具や家具、中には大正か明治につかわれていたと思われる、古い地理の教科書もあった。
僕自身も今年の2月に火事にあったのだが、その経験と照らし合わせるに、それには並々ならぬエネルギーがいる。やることが山積みの中、To Doを減らさないと消耗してしまう。火事のあとはご飯を作るのも億劫だったし、片付けの時には、もう使わないだろうと沢山のモノを捨てた。ただでさえ再建への道のりは平坦ではないだろうに、その熱意には頭がさがる。
旅館の脇には、SL列車も走っていた肥薩線がある。復旧の目処が全く立っていない。土山さんはこのトンネルに一時的に物を置かせてもらっている。なかにはいってみると、流れ込んだ土砂のせいで線路はほとんど見えない。トンネルを抜けると、あたり一面が倒木と土砂で埋め尽くされ、線路は途切れていた。
雨があがった午後、旅館から車で10分ほどの坂本駅周辺へ。駐輪場には、おびただしい数の自転車が置いてあった。駅舎には、ここまで水がきたというビニールテープの赤い矢印が残っていた。たびたび水害に見舞われた地域ではあるが、ここまでの水は経験したことがないそうだ。こんな水が来たらひとたまりもない。
少し足を伸ばして、市街地に大きな被害がでた人吉市へ。途中、鉄道や道路の橋がいくつも流されていた。途中まで数えていたがわからなくなってしまった。被災地の復興には、人の行き来が不可欠だ。休日返上であちこちで道路工事が行われていた。
「自助・共助・公助」というが、インフラの整備や都市計画など、復興にはいくつもの大きな事業が必要となる。そんなの個人にはとてもできないし、ボランティアにだって限界がある。水害の場合、保険でまかなえることも少ないと聞く。災害が多発するなか、なにかしら新しい支援のシステムが必要だと痛感する。
人吉市は温泉が豊富で、古い街並みも残る観光地。温泉施設や飲食店が浸水被害にあい、ほとんどが営業を再開できずにいた。街を歩いていると、ときおりツンと鼻をつくにおいがする。おそらく消毒作業のそれだろう。
頭ではわかっていても、実際にまわってみると被害が広域であることが体感できる。球磨川だけでなく、その支流沿いの集落もバックウォーターによって被害をうけた。
被災地を歩きながら、ずっと考えていた。僕らはどう関わってることができるのだろう。その日の夜、現地の今を伝えるために八代のホテルから生配信を行った。
出演したのは、一緒に回ったFUKKO DESIGNの木村くん、磯田さん、多くの被災地を訪ねてきた作家の浅生鴨さんもリモートで参加してもらった。被害の状況を共有しながら、なにができるのかを考えた。近年、災害が多発していて、復興への道半ばの被災地は沢山ある。そのすべてに心を砕き、支援をするのは無理な話だ。
だからこそ、なにかしらの「つながり」が大切になる。かつて住んだ街が被災すれば、友人知人のことが気がかりだろう。それと同じように、かつて泊まったリゾートホテルや大好きなパティシエの店が災害で傷つけば、やはり何かしたいと思うだろう。今回もFUKKO DESIGNの木村くんがきっかけで、鶴之湯旅館のことを知り、何かのお役に立ちたいと思うようになった。
かつて情報を伝えることができるのは、新聞やテレビなどマスメディアだけだった。今は、誰しもがメディアになりうる。TwitterやFacebook、Youtubeで見知らぬ人に情報を発信することができる。それによって相互のやりとりが生まれる。LNEのグループでもいいし、SNSでもいいし、クラウドファンディングでもいい。関係人口が増えれば、それだけ多くの支援があつまる。
今、僕らに必要なのは「心をよせる智慧」だ。