あの頃、彼と出会っていなければ、ぼくの人生は全く違っていただろう(無料記事)
人には、人生を変える出会いがある。
それは恩師だったり、ライバルだったり、伴侶となる異性だったりする。星野リゾートの社長、星野佳路さんは、ぼくの人生を大きく変えた一人だ。いつも笑顔で、誰に対しても丁寧で、そしてどんな時も明晰な人だ。
そんな星野さんを招いての、bayfmのシンラジオ。いつもより早く幕張に向かった。星野さんを出迎えたかったからだ。bayfmに着いて、駐車場に車を停めると、後ろから、星野さんの声がする。
「あ、河瀬さん、どうも」
星野さんは、秘書を助手席に乗せ、この日も自分で運転を運転してきた。そうそう、この社長らしくない感じ、星野さんだよなぁってなんだか嬉しくなる。この日は、フライターグのリュックを背負い、紺色のカットソーをさらっと着こなしていた。
bayfmのあるのは27階、雑談をしながらスタジオの前室にご案内した。
初めてお会いしたのは、2005年の春だった。当時まだディレクターだったぼくは、企画者であるプロデュサーとともに、翌年から始まる新番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」の準備を進めていた。その1本目を誰にするのか、なかなか決まらなかった。星野さんの名前はかなり早い段階からでていた。しかし社長という職業をドキュメントで撮るのは難しいのでは、という危惧もあり、なかなか手が伸びなかった。他にも外科医、宮大工、デザイナー、パティシエといろんな候補があがっていた。しかしなかなかロケのタイミングが合わず、決めきれずにいた。
そんなある日、プロデューサーにある日、こう言われた。
「星野さんに会ってこい。お前がいいと思ったら、星野さんで行こう」
数日後、長野新幹線にのって、当時星野リゾートの本社があった軽井沢まで会いに行った。訪ねたのは、ホテルブレストンコート。ロビーでコーヒーを飲みながら待っていると、すっと現れた。
「こんにちは。星野です。」
右手をさっとあげ、ニコッと笑うその姿に、一瞬で惹きつけられた。星野さんの話は、どれも新しいアイデアに満ちていて、ノートを取るのが追いつかないほど面白かった。
それからおよそ半年、星野さんの仕事を間近で見せてもらった。当時、破綻したリゾートの再生に次々と乗り出し、「リゾート再生請負人」と呼ばれていた星野さんだが、そのふだんの姿はおよそ社長らしくない。
社長室を持たない。部下にも敬語。移動は自分で運転する車で。自分のホテルでもコーヒー代は自腹。ネクタイは一切しない。会食もしない。Apple製品が大好き。スキーはプロ級。
その経営のスタイルも、斬新だった。
再生に乗り出したリゾートの社員は切らない。組織はフラット。チームのリーダーは立候補制、年に一度の経営戦略会議には、社員全員が参加できる。
こうして星野さんは、社員たちとともに次々と破綻したリゾートの経営を黒字化していった。その姿はとにかくかっこよかった。密着させていただいた半年、多くを学ばせていただいた。
そしてその日々が、ぼくの人生を変えた。
襟付きのシャツを着ないとか、Macを使うようになったとか、そういうことから、仕事で、そして人生で、何を大切にするべきか、多大なる影響を受けた。星野さんに出会っていなければ、ぼくはきっとNHKを辞めていないだろう。
プロフェッショナルを撮影したのは2005年。それからも何度かお会いしているが、たっぷりお話を聞くのは、おそらくプロフェッショナル以来だから、およそ18年ぶりのことだ。
16時になるといつものジングルが流れ出す。鈴木おさむさんは、いつものように構えなく、質問を投げかける。ぼくはある時は、聞き手として、そしてある時には、星野さんの付きそいのような立場で、トークに参加する。
今から18年前、星野リゾートが運営していたリゾートは5つほどだったと思う。それが今は60をこえる。いろんな難しいこともあるだろう。それでも星野さんは、ぼくがプロフェッショナルでご一緒した時から、一ミリもブレていなかった。
そんな星野さんの人生の哲学に、おさむさんとともに迫った「シンラジオ」、その永久保存版のトークはこちらから。
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プロデューサー 仕事の流儀
「突撃 カネオくん」「あさイチ」「おやすみ日本」「アナザーストーリーズ」など数々の番組を手がけてきたプロデューサーの仕事術。考え方を変えれ…
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