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【連載7】戦後の葦津 珍彦/当時の国内情勢・史料編(1/2)[玉音放送直後の話]
【写真】玉音放送を謹聴する国民
【5月7日 加筆しました】
この連載は、戦後より、神道ジャーナリスト・神道の防衛者として活躍。
ペンを武器に言論戦を闘い抜き、戦後の神社界に大きな影響を与えるなどの活動をされた、昭和期の思想家・葦津 珍彦氏について、卒論研究範囲に基づいたお話です。
終戦直後の活動ついて、前回のお話の続きをいたします。
【前回の話】
はじめに
昭和20(1945)年8月15日、日本国が「ポツダム宣言」を受諾する旨を宣言したことにより、兵器戦は終結・停戦する方向へと向かいますが、日本国内はこれより外国に占領されるという日本史上最大の危機を迎える事となり、国内の情勢は日々目まぐるしく変わっていきます。
日本では8月15日に終戦したと通説的に言われておりますが、実際には戦闘は続いていました。
昭和20(1945)年8月8日23時
ソヴィエト連邦(現在ロシア連邦)がいきなり参戦の宣戦布告を通告してきました。
翌9日午前0時より一斉攻撃(満州国と朝鮮)を開始してきたソヴィエト軍と15日以降も戦闘しており、9月5日までの間に千島列島が占領されました。私が元陸上自衛官の方から伺ったお話によると、ソヴィエト軍が北海道まで侵攻してきたので、武装解除状態の日本軍は奮闘して防衛したと聞いております。
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昭和20(1945)年8月10日付記事
この時のお話についてはこちらをご参照ください。
①「ソ連の占拠」
②「終戦特集~太平洋戦争の歴史~ソ連が対日参戦」
②『時事ドットコムニュース』ウェブサイト
その後、満州国に居りました57万人程の日本人がソヴィエト軍に捕虜として拉致されたのち (通称:シベリア抑留)
ソヴィエトの各地に送られて、インフラ整備・各施設建物を造るなどの強制労働させられまして、厳しい環境下でまともな食事も与えられず約5万5千人が亡くなり、長い人では10年程働かされました。
知人から聞いた話によると、親戚にシベリアから帰還された方がいらして、その方はいつもお寿司を三貫しか召し上がらず、もっと食べるように勧めても「おなか一杯だから」と申されておられた。とのことでした…
戦闘状態は、昭和31(1956)年10月19日に「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」の署名がなされ、同年12月12日に発布されて終結するまで続きます。
【資料】
「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」
「わが外交の近況」(昭和32年9月)「資料」より
その後、今現在においても、日本の領空ギリギリまでロシア機が飛んでくる事例は多発しておりまして、そのつど自衛隊機はスクランブル発進しております。
昨日、日本海、オホーツク海及び太平洋において、領空侵犯のおそれがあったため、空自北部航空方面隊の戦闘機が緊急発進し、対応しました。防衛省・自衛隊は、引き続き、我が国の領域と国民の皆様の平和な暮らしを守るため、24時間365日、対応に万全を期していきます。※写真はイメージ pic.twitter.com/WLCabLxU0T
— 防衛省統合幕僚監部 (@jointstaffpa) February 10, 2022
昨日、東シナ海、太平洋岸、日本海及びオホーツク海において、領空侵犯のおそれがあったため、西部航空方面隊等の戦闘機が緊急発進し、対応しました。防衛省・自衛隊は、引き続き、我が国の領域と国民の皆様の平和な暮らしを守るため、24時間365日、対応に万全を期していきます。※写真はイメージ pic.twitter.com/xKFbJxBsPc
— 防衛省統合幕僚監部 (@jointstaffpa) February 17, 2022
ロシアは2月以降、ウクライナ周辺における軍の動きと呼応する形で、オホーツク海等での演習等を通じ、東西に渡って活動し得る能力を誇示。今般の領空侵犯を含め、現下の情勢下において、我が国周辺海空域におけるロシアの活動の活発化は懸念すべきものであり、警戒監視に万全を期してまいります。 pic.twitter.com/QddrL47N1i
— 防衛省・自衛隊 (@ModJapan_jp) March 2, 2022
今回は、この時に国内で起こった事の流れをある程度把握しておく必要があると思うので、本編では触れられなかったお話もしておきたく、今回は玉音放送がなされた時・直後の国内の情勢について、主に参考資料より抜粋(抜き書き)したお話をしようと思います。(前後編に分けました)
昭和20(1945)年8月中旬・国内の話
⑴玉音放送時に関する資料
8月15日の正午。ラジオ放送による「玉音放送」を通して停戦の大号令がなされまして、多くの国民が落涙いたしました。
以下の記事に、8月15日の当日にまつわる詳細のお話を致しておりますので、お知りになられたい方はご参照くださいませ。
当時の様子を伝える資料を、以下に抜粋いたします。
【資料1】当時のニュース映像
当時の9月6日に報道されたニュース映像 (音声あり)
参照【チャプター ①】
「聖断拝す 大東亜戦争終結 昭和二十年八月十四日 」
【註】
当時はテレビもインターネットも無い時代で、
映像のニュースは、毎週映画館にて放映されていました。
テレビ放送は、8年後の昭和28(1953)年になってから開始されますので、
当時はラジオ放送と新聞が主要な情報源で、動画映像は映画館で拝見するのが一般的な時代でありました。
【資料2】
玉音放送当日に関する 当時の新聞記事
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昭和20(1945)年8月16日付記事
以下、写真新聞記事の抜粋文
【記事文説明】
( ) カッコ内は筆者註。
旧仮名遣いでは、小さい「っ」は使わず
通常の「つ」の文字で表記されています。
(1)玉音拝し、一億ただ熱涙(朝日新聞 8月16日付記事)
大東亜戦争帝国の栄光に終るの日、一億の民草(人民)歓呼のうちに拝承せんものとのみ思ひさだめていた玉の御声を、昭和二十年八月十五日正午 われわれは民族悲涙のうちに聴き奉つた、現神の御声は民族の歴史の日にこそ聴かるべきもの、その日は来た、しかもその日は栄光の日にあらず悲しき歴史の日であつて、玉音朗々とはいふ、あゝしかし、この日国民の胸に響いて来たものは いふも畏きことながら たゞ朗々の玉の御声であつたろうか
支那事変以来八年一箇月、日夜戦局 御軫念(ごしんねん)のほどは畏くも御声のうへに拝され 民草斉しく 断腸の思に すゝり泣いたのである、あるひは低く、あるひは高く御声調に拝された御悲痛の極み「朕」とのたまはせられ「忠良ナル爾臣民」とわれら赤子(国民)に親しく呼びかけさせ給ひ「尓臣民ノ衷情モ朕克ク之ヲ知ル」と厚く御慈愛を垂れ給た、国民の涙 榜沱(ぼうだ)、
いかにしても来るべき苦難の日々を大御心に帰一し奉り 荊棘の道を真直にぞ つき進まんと誓ひに誓つたのであつた
大陸に、南海の孤島に、あゝわが幾百万の将兵は玉音を拝し奉つて いかに悲しく戎衣(じゅうい)の袖を絞つたことであらう、剣もつ身、この大詔を拝しては涙拭ひもあへず 遙かに東方を拝しては大御心に副ひ 奉らんことを誓つたことであろう、さらにまた父母の許を遠く離れて田舎に暮す可憐な疎開学童達。玉音をなにと聴き、何を偲び奉つたことか「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」玉の御声もすでに聞こえずなりても
しばし直立不動の姿を崩さず、たゞ 啜り泣く国民であつた
御放送仰せ出さる
十四日宮中に開催された帝国の進路を決すべき歴史的な御前会議の模様は十五日附紙上に謹記(きんき)の如くであるが
天皇陛下には
朕の一身は如何にあらうとも これ以上国が焦土と化し、国民が戦火に倒れるのを見るに忍びない
との畏き御言葉を賜はつた御のち、さらに御語をつがせ給うて
朕にして良いことがあれば何でもする、マイクの前に立つことが良いとあればマイクの前に立たう
と仰せられたと漏れ承る、
一草民の上に垂れさせ給ふ大御心の忝さ、われはたゞ地にひれ伏すのみである
(SBB出版会、平成3年10月、第3刷)
300ページより抜粋
【註】
朕とは私のことで、当時は天皇陛下が御自分のことをこのように申されるのが慣例でした。
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(2)皇国の大本 御昭示 聖上詔書御放送 一億大御心に副ひ奉らん(朝日新聞 8月16日付記事)
天皇陛下には十五日正午ラジオを通じせられて大東亜戦争終結に際し厳かに渙発あらせられた詔書を御放送、今後皇国の嚮ふべき 大本(たいほん)を御躬ら国民に昭示し給うた、これより先ラジオの告知その他により重大放送の行はれることを予め承知した蒼生(人民)一億は定刻となるや それぞれの位置で受信器の前に粛然(しゅくぜん)襟を正し、録音によつて放送された玉音に耳を傾け奉り、大御心を拝察して悲憤の血涙拭ひもあへず聖慮のまにまに粉骨砕身、もつて宸襟(しんきん)を安んじ奉らん誓いを固くしたのであつた
決戦のうちに過ぎた三年八箇月畏くも
天皇陛下には戦局の赴くところにいたく御軫念あらせ給い、瞬持といへども大御心の安らけきを拝さなかつたと承る、顧みて拝察し奉るにけふ この詔書を御放送あらせられんとはいかに予想し給うところであつたらうか
畏き聖断の発表された十五日謹みて坂下門くゞる、大内(皇居) 山杜はいつもながらに気高く静けく変らぬ森厳の気に満ち満ちてはいたが、然も照る日さへ陽ざし薄く心なき松も大御心を偲び寄つて濃緑の梢を低く低くうなだれているかに思はれた、御門を入つて数十歩、玉砂利清き左手の丘に過ぐる敵機の暴爆で炎上した宮城(皇居)の一部が拝される、東御車寄の辺りであらうか、焼け落ちた梁かとも思はれる黒焦げの木材や、御屋根を葺いた鋼材かと見られる残片が拝されるのも恐懼(きょうく)の極みである、それより奥の方は拝し奉るべくもないが、もれ承るに畏くも陛下には最近では宮城内に建てられた防空室とも申上ぐべき仮の御座所に御起居あらせられる御由である、極めて御手狭な御不便も宣はせ給はず、探更に及んで御軍服を解かせられる御暇さへあらせられぬ御ことも御幾夜、幕僚長、閣僚らの拝謁も御前会議もすべてをこのうちにてあそばされたと承る、畏くも聖断を下し給うた陛下には御寝の御遑もあらせられなかつたのではなかろうか、畏多いことながらそのやうにも拝察し奉るのである
陛下には去る昭和十七年十二月畏くも神宮に御親拝あらせ給ひ、御躬をもつ て万民を率いさせられ、国難にあたらせ給はんとの固き御決意を皇祖の大御前に御親告あらせられた、宮中にての重き御祭事を御親祭あらせ給ふに及ばず、重要なる軍機、御政務に関しては深夜の奏上も敢えて厭(いと)はせられず、しばしば前線へ侍従 武官を御差遣あらせられて皇軍将兵勇戦の状況を視察せしめられ、また赤子(国民)の戦時生活、生産増強の上に深き大御心を垂れさせられて有難き御下問を拝し、蒼生(人民)を御激励あそばされた御事も廔次にわたらせたまふ、敵機の爆弾 漸く激化して都市の被害少なからざる趣きを聞召されるや、畏くも帝都の戦災地御巡幸を仰出されて親しくその状況をみられた
一つとして皇国の降昌(りゅうしょう)と民草(人民)の繁栄とを祈らせたまふ大御心に出でざるはなく、この度共同宣言に応ずべき聖断を下したまうたのも一つには無辜(むこ)の赤子(国民)の災禍この上増加せんことを御配慮あらせられての御ことと詔書のうちに拝承する、戦局がいよいよ最終の段階に立至ってからは、坂下門はじめ各御門出入も極めて頻繁となり、最高戦争指導会議、重臣会議、皇族、王公族方の御会合、閣僚の御前会議などがしばしば宮中で開かれた、陛下にはその間「朕のことは介はず国民のためをはかるやうに」との旨の御言葉さへあらせられたと洩れ承る、十四日には早朝より夕刻に至る空襲警報発令下 坂下門の扉は朝来固く閉ざされ、重臣、閣僚、陸海将星らの出入の度に重くきしんで左右に開かれてわれらの眼にも何事かたゞならぬ事態の切迫が感ぜられたのであつた、聖断つひに決するや
天皇陛下には「皇祖皇宗の神霊に対し、また一億国民に対し相済まぬ」
との旨の畏き御言葉を御洩し遊ばされ、申すも畏し御沈痛の御面持にあらせられた御由に承る
299~300ページより抜粋
【資料3】
天皇陛下の当時の御様子が拝せる一文献
次に、天皇陛下の当時の御様子が拝せる内容の資料として、
竹田 恒泰氏の著書『語られなかった皇族たちの真実』より、以下に抜粋いたします。
皇族男子召集
○最前線へ飛ぶ皇族たち
皇族男子が日本の降伏を知らされたのは昭和20年8月12日のことだった。
午後3時20分、在京する皇族男子全員が宮中の御文庫附属室に呼ばれた。
高松宮、三笠宮、賀陽宮(恆憲王、邦壽王)、久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮(稔彦王、盛厚王)、竹田宮、閑院宮、李王垠、李鍵公の、各皇族および王公族十三方が沈痛な面持ちで身なりを正す中、大元帥服を御召になった昭和天皇が御出ましになり、正面の玉座に御座りになった。
そのときの昭和天皇の御様子については、東久邇宮は「天皇陛下は、お顔の色が悪くて、たいへんにおやつれになり、非常に神経質になっておられ、胸潰るる思いがした」と記し、また竹田宮恒徳王は「天皇陛下は今迄拝したことのない程に緊張された御様子」「しばらくお目にかからない間に、なんと深いご心労を宿されたことか」と後に記している。
「陛下の御耳に雑音を入れないため」との理由で、戦争中皇族たちは、
天皇に拝謁することが原則的に禁止されていた。
昭和天皇の弟宮だけは参内することが許されていたが、秩父宮雍仁親王は結核を患って長期間療養をしていたため、天皇の前に進むことができたのは高松宮宣仁親王と三笠宮崇仁親王だけだった。またそのほかの皇族が何かの機会に陛下の御目にかかることがあっても、ほかのことは一切申し上げてはいけないと侍従から注意があったという。
そのため、この日呼ばれた皇族たちは久方ぶりに天皇の謁を拝した。天皇の憔悴なさった御姿を目の当たりにし、目を伏せた者も多かったという。また当時侍従長であった藤田尚徳大将の著した『侍従長の回想』によると、昭和天皇の体重は通常17貫(約64kg)であったが、終戦の時期には15貫(約56kg)まで御痩せになっていらっしゃったことが分かる。藤田によるとそれは「激務と御心労、それに食事の粗末さからくるもの」だという。
参集した皇族たちに対し昭和天皇から、ポツダム宣言を受諾することにした趣旨について御話があり、(陛下は込み上げるものを、そっと胸に抑えておられるような御様子で、しかし、不動のご決意を込めて、しっかりと)
「私自身はどうなってもよいから、ここで戦争を止めるべきだと思う。そこで自分は明治天皇の三国干渉当時の御心労を偲び、ポツダム宣言を受けて、戦いを止める決意をした。どうか私の心中を了解してくれ。そしてこれからは日本の再建に皆真剣に取り組んでもらいたい」(竹田恒徳『終戦秘話』)
と御言葉を御続けになった。それに対して最年長の梨本宮が代表して、「陛下の御英断に謹んでお従い致します。そして今後共 国体の護持に全力を尽くします」と奉答した。召された皇族たちは全員軍人であり、戦争が最悪の局面に達していることを承知していた。
このときの昭和天皇のお姿に接し、皇族たちは次のように思いを綴っている。
「私は、戦争及び終戦の御苦労の結果と、つくづく御同情申上げ、そして――何とかして、陛下の御安心のゆくようにしてあげたい――と、ひとり心に誓った」(東久邇宮稔彦王)(東久邇宮稔彦『私の記録』)
「ふだんはむしろ女性的にさえ思えるほど、お優しい陛下が、この日本存亡の際にお示しになった、不退転のご決意を秘められた荘厳なお姿を、私は生涯忘れることができない」(竹田宮恒徳王)(竹田恒徳『雲の上、下思い出話』)
(小学館、平成18年、初版第一刷)
140~142ページより抜粋
⑵ 宮中での8月16日以降の動き
連合軍は、日本政府より「ポツダム宣言」受諾の通告がなされたあと、東京湾周辺地域に進駐(しんちゅう)を開始。
これより占領がはじまります。
この時国内では、天皇陛下の思召により、終戦を徹底なされるための動きが即座にはじまります。
玉音放送後の翌日8月16日
天皇陛下より御召があり、朝香宮鳩彦王、東久邇宮稔彦王。竹田宮恒徳王、閑院宮春仁王の4名の皇族方は宮中へ参ります。
そして、大元帥陛下※ より、朝香宮鳩彦王、竹田宮恒徳王、閑院宮春仁王の御三方は、海外の第一線にいます各地の軍隊へ、終戦の聖旨(せいし)を伝達する大役を仰せつかりまして、翌17日、それぞれの戦地へ向かわれました。
※大元帥陛下:当時の天皇陛下は、全軍を統率(とうそつ)する総大将でもありました。
【資料4】
聖旨伝達の為 最前線へ向かわれた三殿下に関する新聞記事
以下「朝日新聞」(8月20日付)一面記事より
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昭和20(1945)年8月23日付記事
上掲写真記事文を以下にお書きいたします。
三殿下、現地へ特派 聖旨、停戰の大命御傳達【大本營發表】
(昭和二十年八月廿二日十五時三十分)
◆に 終戰の聖斷を下し給ふや直ちに 陸軍少將 春仁王を南方に、※陸軍中佐 孚彦王(誤報)を支那に、陸軍中佐 恒徳王を滿洲に特派、各陸海軍最高指揮官に對し夫々 聖旨 及停戰に關する大命を傳達せしめられたり。
※筆者註:正しくは、陸軍大将・鳩彦王
一面記事より抜粋
【資料5】
最前線へ向かわれた三殿下にまつわる話(参考文献より抜粋)
①当時の詳細話について書かれている資料として、
小堀 桂一郎氏の著書『昭和天皇』より、以下に抜粋いたします。
承詔必謹
(前略)停戦の御決断を下されたその瞬間から、天皇はこの趣旨を全部隊に徹底させるため、もし陸海軍の大臣が部内を説得するのに困る様であれば、自分は大本営へでもどこへでも行って、この決定は天皇自身が自ら下したことであると明言しよう。と仰せられている。
(中略)
動揺しているであろう陸海将兵の説得のために打たれた手は皇族の御差遣である。関東軍・朝鮮軍の部隊には陸軍中佐竹田宮恒徳王を新京(長春)に、支那派遣軍には陸軍大将 朝香宮鳩彦王を南京と北京に、そして南方総軍には陸軍少将 閑院宮春仁王をサイゴン及びシンガポールに、いずれも「大元帥陛下」の御名代として派遣し、聖旨の伝達に努められた。
各御名代宮は八月十七日東京を発し、十八日から二十日にかけて現地に急行したのだが、連合軍の方でもこの特使御差遣には十分の理解を示し、行動の安全に対する保障、飛行機等の便宜供与には協力的だったと記録されている。
最も若かった竹田宮恒徳王は満州から帰国の三日後には再度天皇から御召を受け、広島県の宇品の海上特攻隊司令部と福岡の第六航空軍司令部など鞏に、軽挙妄動をいましめるための特使として赴いている。直宮である高松宮宣仁親王もマッカーサーの進駐第一歩が予想される厚木の海軍航空隊基地に赴かれた。
天皇自身は、八月十七日付で「戦争終結につき陸海軍人に賜りたる勅語」を以て、〈・・・・・・・・汝等軍人、克ク朕カ意ヲ体シ、鞏固ナル団結ヲ堅持シ、出処進止ヲ厳明ニシ、千辛万苦ニ克チ、忍ヒ難キヲ忍ヒテ、国家永年ノ礎ヲ遣サムコトヲ期セヨ〉と諭され、続いて八月二十五日付の「復員に際して陸海軍人に賜りたる勅論」で、深く戦争中の労苦をいたわられた上で、〈・・・・・・汝等軍人、其レ克ク朕カ意ヲ体シ、忠良ナル臣民トシテ 各民業ニ就キ、艱苦ニ耐ヘ 荊棘ヲ拓キ、以テ戦後復興ニ力ヲ致サムコトヲ期セヨ〉と結んでおられる。
そして復員軍人達は概ね、この勅語勅論の聖旨通り「戦後復興」の主導力となって我々の今日在る如き繁栄の基礎を築くために働いたのである。
(PHP新書、1999年8月、第一刷)
309~310ページより抜粋
②次に、竹田 恒泰氏の著書『語られなかった皇族たちの真実』より、以下に抜粋いたします。
○特使となった三皇族
(前略)玉音放送があった翌日の8月16日、朝香宮鳩彦王、東久邇宮稔彦王、竹田宮恒徳王、閑院宮春仁王の四名に、
昭和天皇から突然の御召があった。東久邇宮を除いて三名は何の御用かさっぱり分からずにいた。
東久邇宮を残して三名が先に昭和天皇の御前に案内された。
天皇は14日の日と同様の緊張した面持ちで、
「終戦をつつがなく行なうために、一番心配なのは現に敵と向かい合っている我が第一線の軍隊が本当にここで戈を収めてくれるという事だ。蓋し現に敵と相対している者が武器を捨てて戦いを止めるという事は本当に難しいことだと思う。しかし、ここで軽挙盲動されたら終戦は水の泡となる。自分が自ら第一線を廻って自分の気持をよく将兵に伝えたいが、それは不可能だ。ご苦労だが君たちが夫々手分けして第一線に行って自分に代わって自分の心中をよく第一線の将兵に伝え、終戦を徹底させてほしい。急ぐ事だから飛行機の準備は既に命じてある。ご苦労だが あした早朝発ってくれ」(竹田 恒徳『終戦秘話』)
と仰せられた。
朝香宮は支那派遣軍に、竹田宮は関東軍※と朝鮮軍に、そして閑院宮は南方総軍にそれぞれ天皇の特使として終戦の聖旨を伝達しに行くことになった。
【註※関東軍:満州国に駐屯する日本陸軍部隊。当時は、中国東北地方・遼東半島最南端で、旅順・大連・金州などの都市を含む地域を「関東州」と言った】
一人控え室に残った東久邇宮にはその直後に大命降下があり、東久邇宮内閣が誕生する。つつがなく終戦させるために皇族たちがそれぞれ大役を仰せつかったのである。
皇居からの帰り道、竹田宮は思いがけない重責に緊張しながらも深く覚悟を決めていた。つい7月まで関東軍参謀として満州帝国の首都新京(満州国時代の長春の呼称)に赴任していたことから、ソ連軍と中国軍の進駐が目前に迫る現地の混乱ぶりは容易に想像はついていた。関東軍に幕引きを命じに向かう心境は悲痛なものであったろう。
竹田宮は「これは誠に大変なお役目である、果して無事に帰れるとも分からない」と思い、帰宅すると身辺の整理を始めた。
(中略)
朝香宮、閑院宮、竹田宮の三宮はその日の夜8時頃に朝香宮邸に参集し、
現地に赴いた際の言動について打ち合わせをした。
翌8月17日午前9時頃、三宮はそれぞれ現地に向かって本土を後にした。
○命拾いした竹田宮
閑院宮を乗せた陸軍爆撃機は福岡に一旦着陸した後に上海に向かい一泊。翌日広東経由で仏印南部のツーランに着陸してもう一泊し、19日の午前10時半にサイゴンに到着した。宮が南方軍総司令官 寺内寿一 元帥に聖旨を伝達すると、寺内元帥は涙を溢れさせ、部下に体を支えられてかろうじて起立を維持している有様であったという。このとき閑院宮も一緒に泣いた。そして翌20日には昭南(日本占領時のシンガポールの呼称)に行き、海軍司令部において第十方面艦隊司令長官中将に同様に聖旨を伝え、サイゴン、南京、富山を経由して24日、東京に戻った。
一方、竹田宮は東京・立川から専用機で飛び立ち、新京へ向かい、関東軍司令部二階の広い総司令官室を埋め尽くすほどに集まった関東軍総司令官 山田乙三大将以下幕僚等に対して、昭和天皇の御決意と、そして仰せられたことをできるだけ詳しく謹んで伝達した。そこには竹田宮の幼年学校の二級下の後輩で、宮の後任として新京に着任したばかりの瀬島龍三参謀の姿もあった。宮は「どんな返答が戻ってくるか、この時ほど心配したことはなかった」と後に書き残している。しかし、厳粛な空気の中、山田大将から「謹んで聖旨に沿い奉ります」との奉答を受けた。誰もが目頭に熱いものを浮かべていたという。
その晩竹田宮は山田大将の官邸に宿泊し、翌18日の朝、奉天(現在の瀋陽)に向かった。だが、新京を離陸した飛行機は間もなく故障を生じ、再度新京へ戻ることになる。幸い故障は一時間ほどで修理され、奉天に向かった。19日には新京にソ連軍が進駐することになるため、このとき速やかに修理できず、宮が新京にもう一泊することになっていたら、シベリアに抑留されていただろう。運命の分かれ道である。
(中略)
8月20日、竹田宮は無事に帰国し復命(結果報告)することができた。そして南方軍に出かけた閑院宮春仁王と、支那派遣軍に出かけた朝香宮鳩彦王も任務を終えて無事に帰還する。この事実は、8月23日付の新聞で報じられた。
(上掲【資料3】参照)
143~148ページより抜粋
⑶東久邇宮内閣の発足
8月15日夕刻頃には、鈴木 貫太郎内閣は総辞職を申し出たため、
翌16日、東久邇宮稔彦王に、大命が下されまして、翌17日に、東久邇宮内閣が組閣いたしました。
【資料6】
鈴木内閣総辞職、東久邇宮内閣組閣に関する新聞記事
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昭和20(1945)年8月16日付記事
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昭和20(1945)年8月17日付記事
【註】皇族への大命降下は、明治18(1885)年に内閣制度が創設されて以来、一度もありませんでしたが、非常事態にあたる措置でございました。
東久邇宮首相殿下は、天皇陛下より「憲法を尊重し、軍の統制秩序の維持につとめ、時局の収拾に努力せよ」との勅(御言葉)を賜ります。
(神社新報社、昭和46年7月)
【資料7】
当時のニュース映像②(東久邇宮内閣発足)
参照【チャプター ②】
「東久邇宮内閣成立 」
参照【チャプター ③】
「大命を拝して 内閣総理大臣 東久邇宮稔彦王殿下」
『NHK アーカイブス』Webサイト
「NHK 戦争証言アーカイブス ニュース映像」より
東久邇宮首相殿下の御演説文(8月17日付)
私は昨日、かしこくも組閣の大命を拝しました。
ただちに組閣に着手し、本日、閣員名簿を奉呈いたしましたところ、陛下には、これを御嘉納の上、親任式を執り行わせられました。
よって、ただ今より私は、新内閣の首班として、この難局の処理に当たることとなりましたが、ここにいささか所信を述べて、同胞各位とともに、時艱(じかん)克服の勇気を大いに奮い起こしたいと思うのであります。
昨日大命降下とともに、仰せ出されたる御言葉は「特に、憲法を尊重し、詔書を基とし、軍の統制、秩序の維持に努め、時局の収拾に努力せよ」との|聖旨を拝せられました。
真に恐懼感激のほかなく、私の組閣の方針も、今後における施政の基調も一に全くこの大御心に副い奉る以外にはないのであります。
思うに、大東亜戦争は世界の大勢と我が国の現状とに鑑み、非常の措置をもって収拾せられました。
事、ここに至ったことは、陛下に対し奉り、真に申し訳なき次第でありますが、同時に、国体のありがたさがこれほどひしひしと胸に迫ったことなく、ただただ感激の涙のあふるるを禁じ得ないものがあります。
聖断、一度下らば、我等臣民、己を捨て翕然とこれにきき奉る事実こそは、我が国体の精華と言うべきであります。顧みれば、戦局が不利になった以来、特に国体の護持ということが国民全体によって唱えられるに至りましたが、国体の真の姿を顕現することこそ、国体護持の第一歩であり、すべてであることを、今日この際、特に銘記しなければならないのであります。
陛下は、汝臣民の衷情はこれをよく知っている。気持ちはよくわかっている。しかし感情に走ってみだりに事端(じたん)を滋く(増や)してはならぬとお諭しあそばされているのであります。
私はここに、我が同胞、軍・官・民、各位の全体に向かって、厳粛に申し上げます。今回の大詔の御精神、御諫め、御諭しは、臣民たる者、一人残らずよくこれを体し、いやしくもこれに背くがごとき言動の許されないのは申すまでもないことでありまして、たとえひとりたりとも、これより逸脱する者のないことは、私の深く信じて疑わないところであります。
挙国一家、大詔にお示しあそばされたる陛下の思し召しを奉戴し、一糸乱れざる足並みをもって、難局の打開に進むとき、全世界は必ずや勝敗を超えて、我が国体の力の偉大さを、驚嘆の眼を見張るでありましょう。
艱難非運の大義においてこそ、ますます国体の真価は発揮せられるべきものであります。私もまた、大詔の御精神、御諫め、邦家の将来に対する御諭しを十分奉戴して、ひたすら聖旨に副い奉るべきことを、施政の根本方針といたし、この未曽有の困難なる時代を処理せんとするものであります。
チャプター ③より抜粋
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昭和20(1945)年8月18日付記事
⑷8月下旬頃の葦津 珍彦氏の動き
この頃の葦津 珍彦氏は、神社防衛の為の単独行動を早速はじめます。
まず最初に、東久邇宮内閣が組閣したのち、
親交ある緒方 竹虎 当時 国務大臣 兼 内閣書記官長 兼 情報局総裁に、自身の解釈による「ポツダム宣言」の危惧を伝えに行きます。
この話を聞いた緒方大臣は、葦津氏の意見に同意され、早速行動を起こされます。
緒方大臣は、内務大臣・内務省や諮問した東大教授等に
「ポツダム宣言に条件をつけずに承諾すれば、日本の国柄は必ず変更され、憲法の改正もしてくるので、神社の存続も危機に立たされるであろうから、受諾後でも条件について交渉の余地はまだある。」というような内容を伝えますが「そんなことはない・ありえない」と言われ、受け入れられる事はなかったとの事でした。
このお話を緒方大臣から聞いた葦津氏は、これ以上政府に頼っていては間に合わなくなると判断。即刻、交際ある当時の神社界の基柱人物へ相談に行かれました。
その結果、葦津氏の意見は受け入れられ、民間の神社関係3団体の関係者間で、情報交換や今後の対策の意見交換が行われていくことになりましたが、この時点では、今後どうなっていくのかは不明だったため、これから占領してくる米軍の様子を伺うしかありませんでした。
【註】民間の神社関係3団体
財団法人・神宮奉斎会
財団法人・皇典講究所
財団法人・大日本神祇会(全国神職会)
この時の話の詳細については、以下の記事の「この頃の葦津氏の行動」の項にて説明をしております。また、民間神社関係3団体の説明・主要関係人物の紹介もしておりますので、ご参照ください。