【5月7日 加筆しました】
この連載は、戦後より、神道ジャーナリスト・神道の防衛者として活躍。
ペンを武器に言論戦を闘い抜き、戦後の神社界に大きな影響を与えるなどの活動をされた、昭和期の思想家・葦津 珍彦氏について、卒論研究範囲に基づいたお話です。
終戦直後の活動ついて、前回のお話の続きをいたします。
【前回の話】
はじめに
昭和20(1945)年8月15日、日本国が「ポツダム宣言」を受諾する旨を宣言したことにより、兵器戦は終結・停戦する方向へと向かいますが、日本国内はこれより外国に占領されるという日本史上最大の危機を迎える事となり、国内の情勢は日々目まぐるしく変わっていきます。
日本では8月15日に終戦したと通説的に言われておりますが、実際には戦闘は続いていました。
昭和20(1945)年8月8日23時
ソヴィエト連邦(現在ロシア連邦)がいきなり参戦の宣戦布告を通告してきました。
翌9日午前0時より一斉攻撃(満州国と朝鮮)を開始してきたソヴィエト軍と15日以降も戦闘しており、9月5日までの間に千島列島が占領されました。私が元陸上自衛官の方から伺ったお話によると、ソヴィエト軍が北海道まで侵攻してきたので、武装解除状態の日本軍は奮闘して防衛したと聞いております。
その後、満州国に居りました57万人程の日本人がソヴィエト軍に捕虜として拉致されたのち (通称:シベリア抑留)
ソヴィエトの各地に送られて、インフラ整備・各施設建物を造るなどの強制労働させられまして、厳しい環境下でまともな食事も与えられず約5万5千人が亡くなり、長い人では10年程働かされました。
戦闘状態は、昭和31(1956)年10月19日に「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」の署名がなされ、同年12月12日に発布されて終結するまで続きます。
今回は、この時に国内で起こった事の流れをある程度把握しておく必要があると思うので、本編では触れられなかったお話もしておきたく、今回は玉音放送がなされた時・直後の国内の情勢について、主に参考資料より抜粋(抜き書き)したお話をしようと思います。(前後編に分けました)
昭和20(1945)年8月中旬・国内の話
⑴玉音放送時に関する資料
8月15日の正午。ラジオ放送による「玉音放送」を通して停戦の大号令がなされまして、多くの国民が落涙いたしました。
当時の様子を伝える資料を、以下に抜粋いたします。
【資料1】当時のニュース映像
【資料2】
玉音放送当日に関する 当時の新聞記事
以下、写真新聞記事の抜粋文
【資料3】
天皇陛下の当時の御様子が拝せる一文献
次に、天皇陛下の当時の御様子が拝せる内容の資料として、
竹田 恒泰氏の著書『語られなかった皇族たちの真実』より、以下に抜粋いたします。
⑵ 宮中での8月16日以降の動き
連合軍は、日本政府より「ポツダム宣言」受諾の通告がなされたあと、東京湾周辺地域に進駐(しんちゅう)を開始。
これより占領がはじまります。
この時国内では、天皇陛下の思召により、終戦を徹底なされるための動きが即座にはじまります。
玉音放送後の翌日8月16日
天皇陛下より御召があり、朝香宮鳩彦王、東久邇宮稔彦王。竹田宮恒徳王、閑院宮春仁王の4名の皇族方は宮中へ参ります。
そして、大元帥陛下※ より、朝香宮鳩彦王、竹田宮恒徳王、閑院宮春仁王の御三方は、海外の第一線にいます各地の軍隊へ、終戦の聖旨(せいし)を伝達する大役を仰せつかりまして、翌17日、それぞれの戦地へ向かわれました。
【資料4】
聖旨伝達の為 最前線へ向かわれた三殿下に関する新聞記事
以下「朝日新聞」(8月20日付)一面記事より
上掲写真記事文を以下にお書きいたします。
【資料5】
最前線へ向かわれた三殿下にまつわる話(参考文献より抜粋)
①当時の詳細話について書かれている資料として、
小堀 桂一郎氏の著書『昭和天皇』より、以下に抜粋いたします。
②次に、竹田 恒泰氏の著書『語られなかった皇族たちの真実』より、以下に抜粋いたします。
⑶東久邇宮内閣の発足
8月15日夕刻頃には、鈴木 貫太郎内閣は総辞職を申し出たため、
翌16日、東久邇宮稔彦王に、大命が下されまして、翌17日に、東久邇宮内閣が組閣いたしました。
【資料6】
鈴木内閣総辞職、東久邇宮内閣組閣に関する新聞記事
【資料7】
当時のニュース映像②(東久邇宮内閣発足)
⑷8月下旬頃の葦津 珍彦氏の動き
この頃の葦津 珍彦氏は、神社防衛の為の単独行動を早速はじめます。
まず最初に、東久邇宮内閣が組閣したのち、
親交ある緒方 竹虎 当時 国務大臣 兼 内閣書記官長 兼 情報局総裁に、自身の解釈による「ポツダム宣言」の危惧を伝えに行きます。
この話を聞いた緒方大臣は、葦津氏の意見に同意され、早速行動を起こされます。
緒方大臣は、内務大臣・内務省や諮問した東大教授等に
「ポツダム宣言に条件をつけずに承諾すれば、日本の国柄は必ず変更され、憲法の改正もしてくるので、神社の存続も危機に立たされるであろうから、受諾後でも条件について交渉の余地はまだある。」というような内容を伝えますが「そんなことはない・ありえない」と言われ、受け入れられる事はなかったとの事でした。
このお話を緒方大臣から聞いた葦津氏は、これ以上政府に頼っていては間に合わなくなると判断。即刻、交際ある当時の神社界の基柱人物へ相談に行かれました。
その結果、葦津氏の意見は受け入れられ、民間の神社関係3団体の関係者間で、情報交換や今後の対策の意見交換が行われていくことになりましたが、この時点では、今後どうなっていくのかは不明だったため、これから占領してくる米軍の様子を伺うしかありませんでした。
この時の話の詳細については、以下の記事の「この頃の葦津氏の行動」の項にて説明をしております。また、民間神社関係3団体の説明・主要関係人物の紹介もしておりますので、ご参照ください。
後編へ続く