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『ムーンライト・シャドウ』月明かりの下で鳴る鈴の音色

私は幸せになりたい。長い間、川底をさらい続ける苦労よりも、手にしたひと握りの砂金に心うばわれる。そして、私の愛する人たちがすべて今より幸せになるといいと思う。

『ムーンライト・シャドウ』は新潮文庫『キッチン』に収められている短編です。
吉本ばななの小説には生死や愛をテーマにしたものが多いですが、本作はその代表作と言えるでしょう。

吉本ばなな

1964年、東京生まれ。
日本大学芸術学部文芸学科卒業。
『キッチン』で「海燕」新人賞、
『ムーンライト・シャドウ』で泉鏡花文学賞受賞など、
数々の文学賞を受賞している。

あらすじ

主人公のさつきは恋人の等を亡くしてから夜明けのジョギングをはじめ、毎朝大きな川にかかった橋まで走りました。
ある日、さつきがいつものように橋まで走ると、うららと名乗る謎の女性と出会いました。彼女は「結構遠くから来たの。」「もうすぐここで百年に一度の見ものがあるのよ。」と語ります。不思議な雰囲気を纏ううららにさつきは妙に心を惹かれました。
等には変わった弟がいました。彼の名は柊と言って、自らをワタシと呼びます。そして柊にもゆみこさんという恋人がいて、彼はその恋人と兄を同時に失うことになりました。等がゆみこを駅まで車で送る途中、二人の乗る車が事故に遭ってしまったのでした。さつき、等、柊、ゆみこの四人はとても親しかったので、二人が死んでからもさつきは柊と会い、お互いの心の傷を癒し合いました。
しばらくして、さつきの元にうららから電話が掛けられてきました。さつきは風邪を引いていましたがうららの誘いに応えて出掛けます。そこでさつきは、「百年に一度の見もの」があさって起こるかもしれないということを告げられました。
「見もの」の当日、さつきがいつもの橋まで行くと、既にうららが待っていました。「時間だ。」うららがそう呟いてしばらく、さつきは信じがたい光景を目にしました。
川の向こう岸に、死んだはずの等が立っていたのです。彼はまっすぐさつきを見つめていました。しかし、二人の間には大きな川があって、駆け寄って抱き合うこともできません。やがて等の姿が薄れはじめると、等は笑ってさつきに手を振りました。さつきも手を振り返しました。
等の姿が完全に見えなくなって、さつきが横のうららを見ると彼女は泣いていました。
そしてさつきが次に柊に会った時、彼はさつきにあることを語りました。彼もまた、夢の中で恋人のゆみこに会ったのでした。

ジョギングとセーラー服

主人公・さつきは恋人である等を亡くしてから、眠りと目覚めに対する恐怖に苛まれます。いつも恋人に関する夢を見てうなされて、寝返りと冷や汗を繰り返す夜。そんな憂鬱を払拭するために、さつきはジョギングを始めました。夜明け前に起きるとすぐに走りはじめます。高いスウェットスーツを二着、シューズ、アルミの水筒を買い揃えて自らを鼓舞し、ジョギングから帰っても洗濯や料理などの家事を手伝い、なるべくひまな時間を作らないように努めました。そうやってさつきは恋人を亡くした悲しみと憂鬱から抜けられる日を待ったのです。
一方、恋人と兄を同時に亡くした柊にも、さつきのジョギングと同じく心の支えがありました。それが恋人・ゆみこさんの形見であるセーラー服です。彼は恋人を亡くしてから、形見のセーラー服を着て高校に登校しています。一緒にいるさつきの方が恥ずかしくなってしまうような格好ですが、柊自身はとても堂々としています。それはゆみこの形見のセーラー服が柊の心を奮い立たせているからなのです。

さつきは柊のセーラー服に対し、自分のジョギングと同じだ、「全く同じ役割なのだ。」と言っています。そして、自分も柊も「失ってしまったものを考えまいと戦う表情」をするようになったとも言っています。しかし、本当にそうでしょうか。
確かに、ジョギングもセーラー服も、二人の”心の支えになっている”という意味では同じです。しかし、亡き恋人のことを考えまいとする人間がその形見を着て歩くものでしょうか。
二人の”心の支え”にはある決定的な違いがあります。それはその”心の支え”が恋人と直接関係があるかどうかです。さつきは等の夢にうなされ、それから逃れるために等とは直接関係のないジョギングを始めました。一方柊は、「セーラー服着てないと泣きそうなくらい頼りになんない」という彼の言葉からも察せる通り、天にいるゆみこに支えてもらうために、彼女の形見であるセーラー服を着ているのです。
「ちらっとでも私を思い出しただろうか。」「果てしなく遠い彼が、ますます遠くへ行ってしまったように思える。」と、さつきは”最期の等にとっての自分の価値”を疑ってしまっています。対して柊は、無意識に恋人の好きだったテニスのショップのウィンドウを見つめてしまうくらい、ゆみこを信じているのです。
だからこそ等は”俺はいつも見ているよ”、ゆみこは”もう一人なんだから、しゃんとしなさい”というメッセージを「百年に一度の見もの」に込めたのではないでしょうか。

等はいつも小さな鈴をパス入れにつけて、肌身離さず持ち歩いていました。
その鈴は高校生の時にさつきが等にあげたもので、それはさつきの家の猫から落ちたものでした。

猫に付ける鈴の主な役割として、飼い主が猫の居場所を把握できるということがあります。そしてその役割は猫から落ちて等に渡ってからも続いています。
その鈴はさつきと等の心を通わせ、鈴が鳴るたびにお互いがお互いの存在を認識しました。二人が付き合った四年の間、様々な思い出が鈴のちりちりと澄んだ愛しい音とともにあったのです。
しかし、等が死ぬとその愛しい鈴の音も途絶えます。作中でも、最初の二頁で鈴に触れられたきり、ぷつりとその存在が途絶えています。たとえ等とひどく”似ている”柊と一緒にいても、ちりちりと澄んだあの音は聞こえてきません。それだけあの”鈴”はさつきと等の絆の象徴だったのです。
そんな中、さつきはうららに「川で見えるかもしれないなにか」を知らされます。さつきはその「なにか」が本当に見えるのか、半信半疑で臨みましたが、川で聞こえたある音によってさつきは確信しました。それがあの鈴の音でした。川の向こう岸に等の姿が見えるより先に、耳に届いた懐かしい鈴の音によって等の存在を確信したのです。まさに自分の飼い猫の居場所を把握するように、さつきは鈴によって等の居場所を確認したのでした。

かきあげ丼

等とゆみこが事故に遭ってから、さつきは柊と何度か会いました。ある日、柊は痩せたさつきを心配して天ぷら屋に誘います。「ものすごくおいしいかきあげ丼の店が突然近所にできたんだ。」と言って。
さつきはそのかきあげ丼をとてもおいしく食べます。さつきも「生きててよかったと思うくらいおいしい。」と話すくらい、彼女にとってそのかきあげ丼は”異様に”おいしかったのです。

吉本ばななの代表作、『キッチン』にも似た描写が登場します。
『キッチン』では、母親のように慕っていた人間の死や親友との関わり方など、様々な悩みや葛藤を抱えていました。そんな中、旅先で見つけた飯屋で食べたカツ丼の味に感動します。そしてそのカツ丼を抱えて親友である青年の元へタクシーで向かうのでした。

『キッチン』におけるカツ丼と『ムーンライト・シャドウ』におけるかきあげ丼は同様の役割を果たしています。それは”生”の象徴としての役割です。
食欲というものは三大欲求の一つであり、”生”に直結しています。そして食べたものを”おいしく感じる”ということも、生きる気力があるからこそであり、生者の特権でもあります。
本作の主人公であるさつきは、最愛の恋人を亡くし、眠れない日々を送っていました。さつきは恋人を亡くす前と比べれば明らかに”死”に近い場所にいるのです。普通、憂鬱に苛まれている時は食べ物をおいしく感じるどころか、食欲がわくこともあまりないはずです。しかし、さつきは”死”に近い場所にいながらかきあげ丼をひどくおいしく感じ、また柊が風邪のお見舞いに持ってきたケンタッキーもとてもおいしく食べています。これらの描写には、恋人の死の悲しみを克服しようとするさつきの内なるエネルギーが凝縮されています。前述した通り、吉本ばななの作品には死をテーマにしたものが多いですが、それは単なる悲しみや絶望の物語ではなく、絶望から乗り越えようとする前向きな物語なのです。

「百年に一度の見もの」と柊の夢

さつきはうららに「百年に一度の見もの」がもうすぐ起こると告げられました。その「百年に一度の見もの」は「七夕現象」と呼ばれ、「死んだ人の残留した思念と残された者の悲しみがうまく反応したとき」に起こるとうららは語ります。実際にさつきは川辺にて、死んだはずの等と出会いました。それはまさしく「死んだ等の残留した思念と残されたさつきの悲しみがうまく反応した」からこそ起きた現象だと言えます。

一方、柊も同じ時間に不可思議な体験をしていました。死んだはずのゆみこが柊の部屋に入り、クローゼットからセーラー服をとり出して、それを抱えてどこかに行ってしまいました。
しかし、うららは七夕現象のことを「大きな川の所でしか起こらない」と説明しました。ではなぜ柊は川辺にいた訳ではないのに七夕現象のような体験をできたのでしょうか。

うららの言う「大きな川」とは、現実の川ではないのでしょうか。
仏教には”三途の川”と呼ばれる川が登場します。三途の川とは生者の世界と死者の世界を分ける川であり、死んだ人間はその川を渡って死者の世界へと向かいます。また、ギリシャ神話においても三途の川と似た役割を持つ”ステュクスの川”という川が登場します。死んだ人間はこのステュクスの川を渡って冥界へ行くのです。
つまり、古くから”川”には生者と死者の境界線の役割があると伝えられているのです。うららの言う”川”が「生者と死者の境界線としての”川”」だと考えると、柊の元にも死んだゆみこがやってきたことの説明がつきます。
さつきにとって等との最後の思い出は川にかかる橋の上での会話でした。だからこそ、さつきは等との思い出がある川で、柊は自分の部屋で、それぞれ七夕現象を体験したのではないでしょうか。

うらら

本作に残る謎として、”うららの正体”があります。さつきは彼女のことを、「普通に暮らしている人間ではないよう」「不思議な女性」と評しています。彼女の正体とは、いったい何なのでしょうか。

結論から言って、うららは死者なのではないかと考えます。
うららはさつきの前に突如現れ、常に不思議な雰囲気を纏っています。
初めにさつきがうららと会ったとき、さつきは声をかけられるその瞬間までうららの気配に気付かず、「いつの間に」現れた彼女に思わず水筒を落としてしまうほど驚きました。また、うららは教えていないはずのさつきの電話番号や家の場所を知っていたり、百年に一度起こるという七夕現象に妙に詳しかったり、普通の人間ではないことを匂わせる描写が多く登場します。
物語終盤、うららは「あたしも、変な形で死に別れた恋人と、最後の別れができるかもしれないのでこの街に来た。」と語っています。この台詞は一見、うららもさつきと同じく過去に恋人を亡くしたという意味にも思えますが、実際に死んだのは彼女の恋人ではなくうらら自身だという解釈もできます。さつきとの初対面時、うららは「遠くから来た」と話していますが、これも”死者の世界から来た”という受け取り方も可能です。
うららがどこから来てこれからどこへ向かうのか、それらは最後まで明かされません。彼女もあの川に恋人との思い出があるのか、もしくは等がうららという女性の姿を借りてさつきの前に現れたのかもしれません。著者である吉本ばななの真意はわかりませんが、うららという人間の儚げなキャラクターや謎めいた雰囲気が作品に奥行きを与えていることは確かです。

ムーンライト・シャドウ

鈴。かきあげ丼。セーラー服。川。
本作では様々なキーワードが交差し、互いに作用しあって一つの作品を完成させています。

ムーンライト・シャドウ。直訳すると”月明かりの影”。それが本作の題名です。
夏目漱石は想い人を月に喩えたと言います。
さつきも空から恋人の等に見守られながら悲しみを乗り越え、成長し、強くなっていくのです。



吉本ばなな『キッチン』新潮文庫
「ムーンライト・シャドウ」収録

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