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随想│強欲に、内なる声にしたがって

 空や雲が高くなって、やや涼しくなった。ぼくは人とうまく話せなくなった。きっと、ことあるごとに「〇〇 類語」と検索してしまう悪癖がそうさせたのだろう。あるひとつの思いを説明するのに、いくつかの言葉が思いうかぶが、そのどれもが本来の思いと微妙に乖離し、ふわふわと上滑りしている。自然、口をつぐみたくなる。中途半端な言葉。正しくない言葉。凡庸な言葉。どれもその言葉をつかう人の魂を汚くするような気がするから。そして、その汚れは、けっして拭き取れない、不可逆なもの。ぼくたちは、言葉を紡げば紡ぐほど、言いようのない後ろめたさ――なにか裏切りにも似た感情に心を重くするのではないか。つまり、言葉と人間とのあいだに、なにか埋めがたい深い断絶が横たわっているのではないか。

 最近読んだ小説に、こんな台詞があった。いわく、「現代においては、沈黙こそが最大の倫理ではないか」。マルクスのいうところの「疎外」された言葉たちをリセットし、洗い清めるために必要な倫理。それが、沈黙なのだという。唸ってしまった。

 いま、ぼくたちは、絶えず社会とつながり続けることを強いられている。ぼくたちが社会と接続していない個人を想像するとき、そこには少なからず落伍者のイメージがつきまとう。健全な個人とは、常に社会と円滑なコミュニケーションを(言葉によって)とる存在。それがぼくたちの常識。黙り込むことなどまったくの無価値で、ソーシャル・メディアや口当たりのよいプラスティック・ワードたちは、ぼくたちに対して社会を「知る」ことを、「語る」ことを求める。そして、言葉たちもまた、社会と接続することを、無言の了解のうちに求められている。

 だが、と、あえて反論してみる(それは、ぼくが社会を語りうる言葉をもたないからだろうか。そして、そのことを恥じているからだろうか)。それでも、ぼくが思うのは、沈黙や、あるいは純粋な個人の言葉――つまり、人間の内側からにじみ出、あふれ出てくるような、社会とも関わらない孤独な言葉は、はたしていかなる価値ももちえないのか、という問いだ。前述した「最大の倫理」としての沈黙の言説にも、ぼくはある程度首肯する。芯のある言葉をもとめるとき、ぼくが手に取るのはある程度古い時代の小説だ。しなやかで強靭な言葉は、多くのの場合90年代以前の作品に見出される。

 一方で、文学においての絶対的な沈黙はばかげたことだろうとも思う。つまり、50年後の読者は、ぼくたちと同時代の小説たちのなかに、生きた言葉を発見するかもしれないから。ではなにが必要なのだろう。難しい。難しいが、少なくともいえるのは、まだ人類が「言葉」によってしか世界を成り立たせられない以上、社会の言葉と同等なくらいには、個人の言葉を尊重すべきだ、ということだろうか。個人の言葉とは、前述したような、内的な言葉を意味する。思うに、この内的な言葉こそが、人間の魂に深く密着し、共鳴するようなモノなのではないか。してみれば、文学とは、内的な言葉と外的な言葉とをうまくつなぎ合わせて、個人と社会とをつなぐ通路なのではないか。

 すこし脱線した。ぼくがもとめる結論は、個人と社会とを媒介する存在としての文学・言葉についてではない。書きたかったのは、私小説についてだ。私小説。現代日本文学の多くの作品が「社会の=外的な言葉」を主に作られたものであるとするならば、私小説は、極限までそうした言葉を排除し、「個人の=内的な言葉」をもちいた小説の形式にちがいない。まじりけのない個人の言葉は、書き手の魂を反映して、しなやかに光り輝く。

 で、ぼくがこの稿で言いたかったのは、ぼくは、私小説を書こう、ということなのだ。なぜなら、いまのぼくは、社会を語りうる言葉を持ち合わせていないから。もちろん、『空気頭』の冒頭のように、自身を語る言葉さえないかもしれないが、だが、その空虚を言葉にすることはけっして不可能な営みではない気がする。

 それでも、社会を語る努力は失ってはならない。というのは、先ほど述べたように、文学の特質とは、個人と社会とを接続する点にあるから。なんだかまとまりのない文章になってしまったけれど、いつものように、結論は強引に希望の雰囲気で。よく眠り、よく食べ、よく読み、よく歩き、よく聴き、よく見、よく学び、そして、よく書きましょう。強欲に、内なる声にしたがって。


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