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随想│正当に若くいること

 自涜のあとに湧き上がる創作意欲は、かえってぼくを、ぼく自身への幻滅に誘う。つまり、ぼくにとって文章を書くこととは、なにか逃れがたい喪失感や欠落を慰めるための道具なのか?

 さらに、決定的な拙さはぼくをもっと打ちのめす。思うに、ありとあるものに修練は不可欠であるが、その過程を正しく踏めないままここまできてしまったということか。その自覚はある。だが乗代のような作家を知ってしまった以上、どうしたって自分は中途半端だ。もはや取り返しはつかない。時の足音は、ぼくの虚ろな頭のうちでどこまでも無情に響いている。

 今のぼくは、書けば書くほど意味が頭からこぼれてゆく。長編を書きとおす作家の精神力はすさまじいものがある。村上春樹も、大江も、カミュも、みな等しく偉大だ。読むことと書くことは異なる。厳然たる真実だ。数万字書いただけで、ぼくはその数万字にからめとられて、物語は生気を失ってゆく。文字を打つ両手は力を失ってゆく。読点の有無に悩み、修飾語の位置に悩み、そんな些事に時間をかけるうちに広い視野は失われている。

 でもまあ、こんな憂鬱もまさに青いものにすぎない。そう言い張ってしまいたい。おそらくぼくに必要なのは、自分を「贋物」であると認める勇気だ。

 それはまさに藤枝静男の境地でもある。つまり、最近読んだものにもろに影響されているわけだけれど。彼は思想の時代を生きた末、自身の贋物性を認め、さらには祝った。『田紳有楽』の底抜けの明るさを見よ。底抜けの馬鹿らしさを見よ。はたして、老境に至ったぼくは、あの祝祭を自らの手で執り行うことができるだろうか。

 断言してしまえば、ぼくは乗代にも太宰にもなれないということだ。あるいはカートコバーンにも。

 それでも内田百閒や藤枝静男、つげ義春のような作家を知ることができたのは幸運かもしれない。彼らは無論、正当な努力の末に現在の評価に至ったわけだが、それでも彼らはどこか達観している。その姿勢を、「偏屈」だとか「諦念」だとか、「世捨て人」だとかいうふうに呼んでいるわけだが。この姿勢ならば少しは見習えそうではある。

 要するに、ただ生き、ただ生き続けることだ。なんて、総括してしまえるけれど、これは案外的を射た考えであるように思う。伊達に本を読み続けて、音楽を聴き続けてきたわけじゃない。こんな衒いも捨てるべきかもしれないが。

 他者。自己。孤独。夜中にこんな文章を書けば、すこしはものが見えてきた気もする。あまりにも若い絶望は唐突に訪れるが、すぐに消え去ってしまうものだ。まだ正当に若くい続けよう。なにかやりつづけよう。気晴らしと冷笑はよくない。藤枝の境地はぼくにはまだ早い。

 すくなくとも自分に宛てた文章は、希望の雰囲気のままで終わらせたいと思った。

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