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山手線にゃんぽ会 西日暮里~日暮里 その12

 (にゃんぽ会は、その次の西日暮里~浜松町を終えましたが、先月のにゃんぽ会の散歩画像を今しばらく続けます あしからず)

 

 晩秋の日差しをあびつつ、谷中界隈を今しばらく歩きます。
 谷中墓地を通り抜ける道沿いに、思いがけずに残されている明治時代初期の「几号(きごう)水準点」があります。

 主に関東や東北の一部に残されている(明治九年に東京から塩釜までの測量を行った際に使われた)、「不」に似た形の記号を刻んだ測量用の水準点です。

 案内板に書かれているとおり、神社の鳥居、狛犬の台座や街道沿いの道標などの石造物の側面に刻まれていることの多い几号水準点ですが、ここでは、石の上面に刻まれています。

 今は広大な谷中霊園が広がる敷地ですが、江戸時代は、谷中霊園のうち南東側は寛永寺の敷地(寛永寺は谷中霊園から上野公園までの一帯までを敷地としていた)、北西側は天王寺(前回の記事に盛り込んだとおり、江戸時代後期に感応寺から天王寺に改称された)の敷地となっていた寺社地でした。
 
 そして、画像に載せた几号水準点の辺りも、かつての天王寺の境内で、昭和の半ば近くまでは天王寺の五重塔が残されていたそうです。

 

天王寺 五重塔の跡地
礎石が残され、案内板が由来を伝えています


 谷中「天王寺の五重塔」の由来を示す案内板。
 
 江戸時代の初期、寛永二十一年(西暦1644年)に建てられた初代の五重塔は、建てられて130年近くの年月を経た明和九年(西暦1772年)の火災「目黒行人坂の大火(明和の大火)」により焼失したそうです。
 今の山手線でいうと、南西の端に近い目黒の火元から、北東の端に近い日暮里の五重塔を焼失させてしまうとは、当時の大火の被害の大きさを実感します。

 (目黒行人坂は、おそらく、にゃんぽ会の目黒で出てきそうなので、今回は詳細は省略します 笑)

 そして、その火災の後、近江国・高島の棟梁により五重塔は再建されましたが・・・。

 約34メートルの高さ(今の建物でいうと10階建てくらい)を誇り、上野から日暮里にかけてが激戦地となった幕末の戦乱(上野に籠った彰義隊に対して新政府軍が激しい攻撃を加えた)、関東大震災、昭和の戦災による被害も免れてきた五重塔ですが、昭和32年の火災により失われてしまいました(心中を図った者らによる放火といわれる)。

 引用したサイトは、焼失した五重塔の礎石から発見された経筒などについてです。

 
 墓地を抜けたところで にゃ~ん♪(笑)

ありし日の(?)五重塔の前で にゃ~ん♪
枯山水の にゃ~ん でした(笑)

 枯山水の近くにあった案内板です。
 谷中霊園の敷地には、様々なタイプの「竹垣」が設けられているそうです。

 
 谷中の街中へと進みます。

由緒ありそうな風情の家屋もあります


左側の札の下二文字は「本」「廛」の異体字らしいです。
「廛」は「店」と同じような意味合い
「テン」「みせ」「やしき」の読みがあるとか

「寛永寺御用達」の表札を掲げた畳の店「クマイ商店」です。

 
 さらに進み、かつての銭湯の建物や内装を活用した、アート作品の展示が行われるというギャラリーのある交差点を曲がります。

 寺町と住宅や商店が入り組むような街並みの谷中の散策です。


 江戸時代初期からの由緒を持つ「自性院」の門前を通ります。
 境内の愛染堂にまつられた愛染明王像が有名となり、江戸時代の後期には「愛染寺」とも称されていたそうです。

猫のように日向ぼっこをしています にゃ~



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