12月は待ち時間(ぼぶ)
12/30📮
この時期はいつも家族の分の年賀状を作っている(ぎりぎり、というかもう間に合ってない)のだけど、今年は喪中なのでその仕事がない。(そのかわり、喪中はがきを作る仕事はあった)
わたしも職場関係のひととか、祖母のことを知ってくれているけどほぼ年賀状でしかやりとりがない友だちには喪中はがきを出してみた。ほかの友だちには送っていないので、何枚か年賀状が届きそうだ。
年賀状は出さないことにしたけど、もしもらったらお返事を送れるように、少しだけはがきの準備をした。寒中見舞いにしよう。
もういいやん年賀状って…と毎年思うものの、でもやっぱりうれしいお手紙だなーとも思う。自分宛てに郵便物が届くのがうれしいのは、子どものときといっしょだ。
べつに「あけましておめでとう」とか、干支とかお正月っぽい絵とかじゃなくてよくて、季節のご挨拶とか、ただお手紙を送る機会だと思えばいいのかもしれない。お手紙に慣れていないひとも、年賀状ならふつうに送れるし、受けとれるらしいのだ。いつでも手紙を書きたいときに書けばいいやんって思うけど、でもまあ、機会があるっていうのはいいのかもね。
そういえば、去年は「年賀切手を使う」というのを覚えたので、手持ちのはがきを使って、年賀切手を貼って、切手の下に赤いペン(がなくてピンクとかだったかもしれない)で「年賀」と書いた。
それまではいつもインクジェットの年賀はがきを買っていたけど、年賀切手の牛のほうがだんぜんかわいいのだった♡
それでだいぶ気分がよく楽しくなった。もちろん年賀用じゃないいつものかわいい切手でもいいのだ。
そうやって、好きなやりかたを探していけばいいんだなと思う。やめたくなったらやめよう。
📻
母の店にラジオがきて、生放送で10分(ってけっこうしっかりな時間だった)ほど紹介してくれた。母もしゃべっていて、その様子を店の奥で数分遅れのラジコで聞いているのはおもしろかった。
そのコーナーが始まる少し前にラジオをつけたら、SPEEDのWhite Loveが流れて、なつかしくてうれしくなり、それもなんだかよかった。
なつかしいってどうしてうれしいんだろう。
その数時間後、「ラジオを聴いて、びっくりして」と、おじいさんがやってきた。母がラジオで、先代店主の祖母(母の母)が今年亡くなったということを話したのだけど、彼は祖母の同級生だったそうだ。買い物をしてくれてから、帰りがけにお香典を入れた白い封筒をサッと差し出して、気持ちだけだから気を遣わないでほしいというようなことを物腰柔らかく言い、杖をついて帰っていった。すらりとして、祖母と同級生なら91歳なのだがとても若々しく、優しげでしっかりとした雰囲気のひとだ。
おうちは電車で何駅かのところのようだった。ラジオを聴いてすぐかけつけるって、すごい。そんなにすぐに体が動くなんて。
歩くのが早いとか体を素早く動かせるということではもちろんなく(杖もついているのだ)、ためらわずに立ち上がり、お香典を準備し、電車にのって出かける、という行動を選びとれるのは、歳をとっているからだろうか。
でも、自分にも時々、そういう動きかたができるときがあるような気がする。無理なく自然と、ためらわずに動けるとき。
いつもそんなふうにいられたらいいのかもしれない。大事な瞬間を逃さないで、心と体が同じ速さで動く感覚。迷わない、考えすぎない、集中とぼんやりがどっちもある感じ。そういうときの自分はとても健やかだと思う。
12/28🍛
クリスマスっていいな〜と毎年思うけど、終わったらあっというまにクリスマスの空気も気分もどこかに行ってしまうのがふしぎ。ちょっと変なくらい、急な感じだ。
キリスト教の国では、クリスマスと新年がもっと自然に繋がっているんだろうか?
昨日ひさしぶりにラジオを聴いたら、マーキーさんが明日は奈良で餅つきだって言ってた。去年友だちが行っていて、すごく寒そうで、気持ちよさそうで、楽しそうだった。年の瀬から新年のばたばたする日々を、ただばたばたするだけじゃなくきちんと丁寧に味わって、この時期にふさわしい仕事をして、次の季節に向かうことができるような儀式(?)なのかなって思った。友だちのひとりは、きっと今年も行ってるんだろうな。
今日は前から気になっていたお店で、母とカレーを食べてコーヒーを飲んだ。
ヴィーガンカフェだけど、なにかを強く主張している雰囲気ではなく、おいしくてやさしい好きなものを作っているという雰囲気で、ゆったりと居心地がよかった。大きな窓から川がみえる。
女の人たちや、子どもを連れたひとでほとんど満席だった。みんな急いでなくて、のんびりおしゃべりしたり、ひとりで窓際の席でゆっくりしていたりする。お店のひとも、きっと忙しいと思うのだけど、全然焦ったり急いだりしていなくて、でもカレーもコーヒーもスッと運ばれてきた。
年末ってみんな急いでいるのだと思っていたけど、案外そうじゃないみたいだった。
テイクアウトができたので、妹の分のカレーも箱に入れてもらって買って帰ることにした。
年末年始を実家で過ごす友だちがラインをくれた。クリスマスのあとは、みんな待ち時間みたいだ。それはなんだかすごくほっとすることだ。みんな、この合間の時間を過ごしているんだな。
まだくっきりとしない、きっぱり終わるのでも、あざやかに始まるのでもない、でも決して悪くない季節だね。
わたしはやっぱり絵を描いて過ごそうと思う。
12/26⛄️
よく寝たはずなのに眠くて、寒さにめげてひきこもり。
参加していた企画展が無事に終了したみたいだ。ほっとした。
会場には行けなかったのだけど、大勢の参加作家の中で自分はなんとなく場違いな感じがしていて、期間中ずーっとハラハラしていた。
友だちが何人か行ってくれたみたいで、うれしい。
何をしていてもなんとなく落ち着かなくて、それで疲れて眠かったのかも、と思う。
絵を描きたくなっている。きっと、手を動かすのがいいんだろう。明日は描けるといいな。
12/22🍊
昨夜はよく眠れなかったから、ぼーっとして頭が重くて眠たく、でも家で寝てたらよけい重たくなりそうだった。
だから外へ散歩に出て、気がついたら5キロ歩いていた。それでもなぜか足りないので、お昼ごはんを食べてからまた外に出た。
それなら、と母に頼まれて、氏神さんへ古いお札を納めに行った。その神社は歩いたら30分くらいかかるからいつもはあんまり行かなくて、もっと近所(だけどそこの氏子ではない)の神社で済ませてしまう。お札ってどの神社へ返してもいいらしい。
これはいま滞在している実家の話で、ふだん自分の家ではお札をもらったり神棚に祀ったりしていない。神棚もない。新築の家だと、ちゃんと神棚をつくったりもするんだろうか。
そういえば、祭壇つくりたいって思ったことあったんだった。そしたら、何を置きたいかなあ。
もんぺを作っているとき、お寺と神社の話もしたのだ。
友だちの話を聞いて考えて、自分の心を整理したり、浄化されにゆくのは、お寺がよいかも、と思った。お寺はあんまり主張せずこちらの話を聞いてくれる、淡々と、とても静かに、少し距離をおいて、必ずこちらを見ている感じがする。(たまにそうじゃないお寺もあるけど)
神社のほうが、ずっと人間ぽい。ひとと同じで、気が合ったり、感性が噛み合ったらよいけれど、そうじゃなければかえって心がざわついてしまう気がする。相性があると思う。
今日のお札の神社は気持ちがよくて好きな場所だから、ちゃんとあいさつする。
ちょっと前に、友だちがここで結婚式を挙げたらしい。家が近いというのでもないけど、式の場所に選ぶくらい、気に入っている神社みたいだ。友だちに友だちを褒められて、友だち同士が仲良くなってくれたようで、なんとなくうれしい。
いまの自宅のそばにある神社もとても感じがいいから、引っ越したとき、とてもうれしかった。ぜひ仲良くしたい。今後、神棚を作ったり、お札をもらいに行くことがあるかはまだわからないけど。
帰り道は疲れて休憩。スーパーでかぼちゃを買って帰る。
12/20🪡
もんぺ作った。かわいいね〜♡
友だちが企画してくれたもんぺ作りの会で、早川ユミさんの本をみんなで見ながら布を裁ち、おいしいお菓子を食べ、好きなものを飲み、ちくちくしたりミシンを踏んだり。
布をカットするまでがたいへんで、広い場所と、形と作り方を把握することと、はさみを入れる勇気と、相談する友だちが必要で、ひとりではたぶんスタートすらできないことだった。その日は時間がたりなくて仕上がらなかったけど、スタートすることが一番大事でむずかしいから、それができたらもう十分だった。
家でちまちまつづきをやって(いまミシンがないので手縫い。でも着物の布を使ったから、手縫いが合っていたかも)、どうやらそれらしいものができあがったよ。
もうちょっと何かくっつけようかなー。
12/15🎨
上野リチ展へ。
たぶん10年くらい前に彼女のデザインを初めて見て、あまりのかわいさに衝撃をうけた。
展覧会で買った図録や作品集ってそんなにしょっちゅう見返さないけど、そのときの図録はよく見ていて、絵を描くとき真似したり参考にしたり、たくさんしている。
彼女のつくるものは、カラフルで、のびのびしていたり、キュッとしていたり、おしゃれで、小さくて、大きくて、たっぷりしていて、楽しげで、きらきらで、かわいい。
名前も好き。リチって愛称らしいのだけど、写真で見た彼女の雰囲気によく似合う、すてきな名前だなと思う。「理知」を連想させるのもあるかもしれない。かしこくて、スッと立ってる感じ。知性と感性。
リチは四姉妹で、みんな芸術の分野で活躍してたんだって。妹のキティの陶器の作品も展示されていて、カラフルでへんな馬のメリーゴーランド、めっちゃくちゃかわいかった。
展示ブースのデザインに、当時の彼女たちの写真が大きく引き伸ばされてたくさん使用されていた。どれもいいんだけど、たぶん、キティと思われるひとの写真がすごくよくて印象的だった。作りかけの作品のそばで、溌剌とした表情で、堂々と、自然と、こちらをみて微笑んでいる写真。
すばらしい女の人でもあり、男でも女でもない、もしくはどちらでもある、しっかりと存在感のあるひとりの人間、という感じをうける写真だった。
リチのデザインを見ながら、若いころこのような勉強をする方向に進んでいたら、わたしはどうなっていただろう?と思った。
デザインとかデザイナーという言葉からはあまりイメージできなかったのだけど、昔から模様や装飾的なものがすきだったし、たぶん比較的得意な分野でもあったと思う。でも、それを活かす仕事とか将来はぜんぜん思い至らなくて、美大を目指していたころも日本画学科に入ろうと考えていた。
自分のすきなことがわかったり、あらためて感じたり、腑に落ちたりするとき、気持ちがスッとしてキラキラする。絵が描きたくなって、帰ってからたくさんらくがきをした。
行ってよかったな。
(そういえば行く前に公式サイトを見ていたら、展覧会オリジナルグッズが超かわいくて、あーお金使っちゃうなーまあたまにはいっか…と思いながら行ったけど、結局、展示されている作品のほうがもちろん比べものにならないくらいすてきなので、印刷されたグッズたちが魅力的に見えなくて、あんまり買わずにすんだ。それも大事なことで、おもしろかった。)
12/14🌈
少し前に、こまごまと残っていた、締め切りのある(自分で作った)お仕事が終わった。
ずっとそのことがストレスだったので、終わったら解放されてすっきりする!と思っていたのに、やらなければならないことがなくなってしまうと、あとの時間をどうしたらいいかわからなくなった。
自主的になにか活動するしかないけど、あたらしく動きはじめるパワーが出なくて、この待ち時間はいつ終わるのかよくわからないし、かといってぼーっと過ごすのもつらい。
きのうは家族が生理でしんどそうで、その影響をうけてわたしもしんどい気がして、意味もなくぐったりと過ごした。外へ出たくてしかたがなくなった。
それで今日は散歩の帰り、近くの大学の中にあるスタバへ。家の外で腰を下ろして、ひとりでコーヒーをのんでしばらく過ごせる場所があるって、めちゃくちゃありがたいなあ。
学外の人も入れるお店だけど、平日も土曜日も、思ったよりご近所から来た風な人はいなくて、やっぱりもちろん学生が多い。店員さんもみんな学生かと思ったけど、今日レジをしてくれた人はわたしと年齢が近そうで、なぜかちょっと安心する。みんなニコニコしてやさしいのがいい。意味なくニコニコしなくていいけど、お店の人が、ニコニコしてもいいなって思ってるようすでニコニコしてくれるのはうれしい。
学生を装うには無理があり、では大学職員のような顔をしていようと思ったけど明らかにそうは見えないだろうし、ご近所の定年退職した人が一休みしているのでももちろんないので、所属が不明、分類できない、謎な人だと思われているかもしれない。
仕事でよく大学へ行っていたときにも思ったけど、二十歳前後の学生の女の子は、結構みんなよく似ている。たぶん、メイクが似ているのだと思う。服装もいろいろなのに、なぜか似ている、みんなおしゃれで、いま流行っている格好をしているし、歩き方とか姿勢、髪のつやとかも似ているのかもしれない。本人たちはきっとそうは思っていないだろうけど。(これがつまり、若いアイドルの見分けがつかないというやつなのだろうとも思うけど…)
マスクをしていようが、若い、ということが、なぜか全身の雰囲気からわかる。みずみずしくて、若々しい。自分もかつてそこにいたとはあんまり思わないし、もどりたいなとも思わないんだけど、そういう明確な新しさ、若さってさわやかでいいものだなと思う。
少し本を読んで帰る。昨日しんどそうだった家族はもう元気になっていて、よかった。
12/12🍁
さんぽ。
いつもは川沿いを歩くけど、紅葉の人混みシーズンが終わったようなので、近くのお寺へ。
帰りに少し遠回りして、住宅街を抜けていくことにした。覚えていないくらい前に何度か歩いたことがある道。しばらくいくと、通っていた小学校の学区に入る。
わたしの実家があるのは小さな商店街エリアで、ほかの多くの友だちは、この住宅街エリアに住んでいた。実家の町内には子どもがほとんどいなくて(わたしひとりだったこともある)、地蔵盆のときなどは、大勢子どもがいて楽しげな住宅街エリアがすごくうらやましかった。
仲良しの友だちの家に行く道はしょっちゅう通ったけど、そのほかの道は当時からあまり馴染みがないし、今となってはほとんど見覚えのない、知らない土地みたいだ。
自分のエリアじゃない住宅街ってどきどきする。同じ小学校に通う子たちの住む地元の住宅街なのに、なぜかアウェーな感じ、おそるおそるな感じ、住んでる人しか歩いたらだめな場所によそ者が迷い込んでしまった感じ。
商店街やお店がたくさんある道は、だれにでも開いているんだなあ、と思った。住宅街は、やっぱりそこに住んでいるひとだけの場所なのかも。住んでいたり、暮らしの中で深く関わるひとたちだけの。だからわたしはお店の並ぶ町が好きで、安心するんだろうか。Googleマップを見ながらおぼつかなく歩いていてもオッケー、迷いながら歩いてもオッケー、だれかに道を聞いてもオッケー。
住宅街をぬけて家へ帰る道順はなんとなくわかっていたので、ところどころ見覚えのあるポイントを通過しながら歩いていたけど、全然知らない景色もたくさんあった。というか、見覚えがあるのは曲がり角の道の角度だとか、全体の雰囲気だけで、並んでいる家家はどこも記憶にないし、方角だけをわずかな手がかりにして歩いているだけだった。
そのうちとつぜん、完全に見覚えのある道へ出た。ここにつながってたのか〜、と思う。すぐ近くに、よく知ってる友だちの実家の屋根がみえて、なんだかとうとつな、あっけない感じ。荻原朔太郎の猫町みたい。