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嫌な記憶がぬり変わった日

10年前、当時小学生だった息子2人が野球チームに入っていて、野球漬けの週末を送っていた。
春、試合で野球グランドのある大きな公園にいた帰り、あまりに空が綺麗だったので、エイ!と芝生にごろんと横になって青空を眺めた。

寝っ転がって空を眺めるのは大好き。
視界が全部空になるのが、地球や宇宙を感じられて壮大な気持ちになる。
昔、妹と夜中の誰もいない歩道橋で寝っ転がって夜空を眺めたのも最高だった。

綺麗だな〜…と思った瞬間、その日たまたま試合を見に来ていた旧夫(その時はまだ夫)に
「恥ずかしいからやめて。」
と言われた。
本当はもう少しそのまま空を眺めていたかったけれど、渋々起き上がった。
その時のわたしの目はきっと死んでいたと思う。

わたしが楽しいことをして帰ると嫌味を言われて楽しかった気分が台無しになる、わたしがすごく嬉しいことを聞きたくないと言われる、わたしが頑張っていることを鼻で笑われる、そんなことが多くて、だんだん何も話したくなくなった。
旧夫のいる場のわたしはもはや別の人間だったと思う。

芝生でのたったこれだけの出来事、多分旧夫も覚えていないと思うけれど、わたしにはとても嫌な記憶として残っていた。


先日、恋人との会話の流れでふとそのことを思い出し、「ねえ、公園を一緒に歩いてて、突然わたしが芝生に寝っ転がったらどうする?」と聞いてみた。

「『気持ちいいかい?』って聞くよ。」
「『気持ちいいよ』って言ったら?」
「『えーじゃあ一緒に僕も』ってごろりんするし、何にも言わなくてもごろりんする。」
「え〜…!素敵!」
「って普通思うんじゃないの?気持ち良さそうじゃん。なんでそれが素敵なの?」
「…あんまりそれに楽しくない思い出があるから聞いたの。あなただったらどうなのかなと思って。」
「僕を元気にしてくれる人が気持ちいいと思うものなら共有しないとね。
あなたがいいなと感じるものは、僕にとってもいいんだよ。」


2、3分のさらっとした会話だったけれど、ああやっぱりこの人は恥ずかしいともやめてとも言わないんだなあと、むしろ一緒に寝転がるのを普通だと思うんだなあと、なんだかふわっと嬉しかった。

次の日、お風呂でこの会話を改めて思い返した。
わたしの隣に当たり前のように一緒に寝転がってくれるところを想像したら、ずっと求めている理想の幸せな風景すぎてはらはら泣けた。

泣きながら、そういえば他にもアイロンがけとかコロッケとか、バカみたいに小さなことだけど、嫌な記憶として残っているものがいろいろあるなあと思い出した。
それらも「あなたならどう?」と聞いてみたら、芝生と同じように楽しそうな想像に変わって、嫌な記憶が消えるんじゃないかと思った。
今度聞いてみよう。そして嫌な記憶をぬり変えよう。

『芝生に寝転がる』=「恥ずかしいからやめて」だったのが、
『芝生に寝転がる』=

この幸せな絵に変わった。


旧夫には芝生に寝転がるのを恥ずかしがる女性がいたらいいし、わたしには一緒に寝転んでくれる人がいたらいい。
ただ組み合わせが悪かっただけ。今はそう思える。


あの日、またわたしの「好き」を台無しにされたと心が死んだわたしに、
大丈夫、そのまま自分の「好き」を大事にしていたら、10年後一緒にごろんと空を眺めてくれる人が現れるからね!
と言ってあげたいと思った。

待ち受けにしたらピッタリだった♪





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